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近代美術のはじまり……クールベ、マネ

フランス革命、産業革命などの影響のもとに、独自の絵画を生み出したクールベとマネ。近代美術の始まりとされている2人を中心にご紹介いたします。クールベやマネは、激動の時代の中で絵画のあるべき姿を見つめ直し、独自の手法を確立していった画家です。

執筆者:橋本 誠

<目次>

近代美術のはじまりとは? クールベ、マネを取り上げる

近代美術のはじまり

近代美術のはじまり

近代美術のはじまりの設定の仕方には様々な論説がありますが、新古典主義やロマン主義、写実主義が台頭する18~19世紀だとされています。特に1789年のフランス革命を受けて、ヨーロッパの各地で市民社会が成立、発展していったという時代背景の影響は大きく、芸術家は自分たちを取り囲む現実にも目を向けるようになりました。

そうしてクールベに代表されるような写実主義や、その流れに立ちながらさらに新しい感性をもって現実世界に目を向けたマネなどが登場します。

「近代美術の始まり」をテーマに、ギュスターヴ・クールベとエドゥワール・マネを中心に取り上げたいと思います。
 

古典的形式から抜け出しきれなかった新古典主義とロマン主義

ヨーロッパにおける18世紀までの絵画は、主題を神話や宗教に求めた神話画・宗教画、王侯貴族をはじめとするパトロンを主な対象とした肖像画がほとんどでした。

一部17世紀オランダでは、カトリック教より分派したプロテスタントによる市民国家が成立し、近代的な性格を強くしていたために、写実を重視した風景画や静物画、風俗画などが多数制作されました。この動きは、後に近代絵画が成立する大きな基礎となります。

 
トルコ風呂
ドミニク・アングル《トルコ風呂》1862年
1738年にハルクラネウム、1748年にポンペイと立て続けにイタリアの古代遺跡が発掘されたことがひとつのきっかけとなり、18世紀後半のヨーロッパではギリシア・ローマ時代の古典への回帰が志向されるようになります。この動きはルネッサンス時代の「古典の復興」に対して「新古典主義」と区別されています。

新古典主義の代表的な画家には、時の権力者であったナポレオンの姿などを荘厳に描いたジャック・ルイ・ダヴィッド(1748-1822)や、きめ細かな美しい肌の表現をもって女性の裸体などを描いたドミニク・アングル(1780-1867)らが挙げられます。

 
民衆を導く自由の女神
ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》1830年
一方で、新古典主義の運動を形式上の模倣や追従だとみなし、激しい構図や色使い、東洋趣味(オリエンタリスム)、現実から離れた幻想世界のテーマなどを取り入れて古典に対する反抗を試みたのがロマン主義です。

ロマン主義の代表的な画家には、ダヴィッドの弟子で、生き生きとした表情でナポレオンなどを描いたアントワーヌ・ジャン・グロ(1771-1835)や、革命の様子などをドラマチックに描いたウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)などが挙げられます。

新古典主義やロマン主義の絵画は、それぞれに18世紀までの絵画を新しい形で推し進めた表現でしたが、神話的、宗教的なものにテーマを求めたり、現実を美化した描写を行っていたという点では、古典的な形式から脱却することはありませんでした。そこからより大きく近代絵画への一歩を踏み出したのが、写実主義です。
 

身近な現実の世界に目を向けたクールベと写実主義

出会い(こんにちわ、クールベさん!)
ギュスターヴ・クールベ《出会い(こんにちわ、クールベさん!)》1854年
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は、身近な現実の世界を忠実に描写することが絵画の本質であると考え、それまでには描かれることのなかった貧民や労働者も積極的に描きました。

例えば《出会い(こんにちわ、クールベさん!)》では、道端でクールベがパトロンに出会った日常風景をありのままに描いています。パトロンに対してへりくだることのない様子も忠実に表現されています。

クールベは、現実には存在しないモチーフや、美化された「絵空事」を描くことは決して行わず、自分の目で見たものだけに題材を求めたのです。それをよく表す彼の言葉に「天使を描いてほしければ、目の前に天使を連れてこい」というものがあります。

こうした現実の世界のみに主題を求める写実主義(レアリスム)は、それまでの絵画とは大きく態度を異にするものでした。

当時のヨーロッパでは、新古典主義のアングルと、ロマン主義のドラクロワが絶大な人気を誇っており、1855年のパリ万博でも二大巨匠展が開催されましたが、クールベは私費を投じ、果敢にも個展を同時開催して自らの芸術観を示しました。このような形で個展が行われたのも、美術史上初めてだったと言われています。
 

自然や政治と向き合った写実主義の作家

落ち穂拾い
ジャン=フランソワ・ミレー《落ち穂拾い》1857年
三等列車
オノレ・ドーミエ《三等列車》1863-65年
クールベと共に活躍した写実主義の作家には、ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)やオノレ・ドーミエ(1808-1879)らがいます。

ミレーは自然を好み、パリ郊外のバルビゾン村で活動したバルビゾン派のひとりです。バルビゾン派の多くの画家は人物を風景の一部として描いていましたが、ミレーは風景はあえて細かくは描きこまず、人物の様相を丁寧に描写しました。

ドーミエは雑誌『カリカチュール』などで版画による政治風刺漫画を描きました。自由平等思想が広がる中で、現実の生活に対する批判精神を持ちながら活動した画家だと言えるでしょう。
 

生身のヌードを描いたマネのスキャンダル

草上の昼食
エドゥワール・マネ《草上の昼食》1863年
オランピア
エドゥワール・マネ《オランピア》1863年
ウルビーノのヴィーナス
ティツィアーノ・ヴェチェリオ《ウルビーノのヴィーナス》1538年
パリ万博では、1839年に発明され、改良が重ねられていた写真技術(※)やそれらを利用した作品も紹介されていました。現実の世界をありのままに描写する写実主義に限らず、絵画には写真とは異なる表現が求められるようになっていきます。
※ダゲールにより発明され、1839年に発表されたダゲレオタイプが世界初の実用的写真技法だとされている。

そのような中で登場したのがエドゥワール・マネ(1832-1883)でした。マネは、写実主義のクールベに感化され、現実の世界を描く対象にしましたが、「如何に描くか」といったことを模索しました。

1863年、当時定期的に開催されていた公募展「サロン」の落選展にマネは《草上の昼食》を出品。大スキャンダルをまきおこします。川辺で昼食をとる紳士と裸婦の姿がモチーフですが、当時この様に現実の風景の中に裸婦を描くということは不謹慎だとされていたからです。

それまで絵画に描かれる裸婦というものは、あくまで人間の姿を借りた神であり、生身の女性ではありませんでした。よって描き方もアングルの描いた裸婦のように美しく理想化され、シチュエーションも現実離れをしたものだけが許されていたのです。

人の目に映る映像に限りなく近い、現実的な表現をもって描かれた裸婦の姿は当時の人々にとっては大きなショックだったのです。

また、《草上の昼食》が発表された2年後に「サロン」に出品された《オランピア》も大きな話題を呼びました。恥らうことなくこちらを見つめる女性は、身につけているものや一緒に描かれた黒人の召使いなどからも、娼婦であることがうかがい知れます。

作品の構図をティツィアーノ・ヴェチェリオ(1488-1576)の作品《ウルビーノのヴィーナス》に求めつつも、描かれる対象が俗的なものにすり換えられている大胆な作品です。

ちなみに、作品の構図については《草上の昼食》もティツィアーノの《田園の奏楽》などを参考にしたと言われており、マネは美術史に着想を求めることをした最初の画家だとも言われています。
 

近代美術のはじまり

18~19世紀のヨーロッパでは、自然科学の進歩、科学知識の実用化、資本主義の発達、産業の合理化などの動きがあり、人々の日常生活にも大きな影響を及ぼしました。絵画をはじめとする芸術もまた、これにより大きな変革が訪れたといってもよいでしょう。

クールベやマネは、激動の時代の中で絵画のあるべき姿を見つめ直し、独自の手法を確立していった画家です。後に様々な主義が短期間のうちに興隆し、それぞれが個性的に新しい芸術を目指していくという近代美術の出発点に位置づけることができると思います。


【関連サイト】
  • 19世紀絵画教室……19世紀の絵画を紹介するサイト。クールベやマネの作品紹介もあり。

いかがでしたでしょうか。近代美術のはじまりを語るのにはかかせないクールベとマネの作品。もしも今後見る機会があった時には、この記事のことを思い出していただければと思います。

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