メカノというバンド
メカノ:メカノ人形 |
一昨年からヴォーカリストとベーシストで活動を再開していますが、ユーロピアンな翳りのある歌物になっていて万人向けではありません。究極の全盛期音源集「The Half Inch Universe」は最高ですが現在在庫切れらしく入手は難しい。私がNETで使うHN「養子」も実は彼等の歌の一節でして「I wore the face of the frozen one. wasn't born, picked up life, as adopted son」というのの最後の部分です。異なった由来の部品を接続して生まれた、ロックやポップスとは血の繋がっていない存在、という意味です。
*スペインに同名のエレポップ・バンドがありますので間違わないように。
ディスクユニオン店長時代
ガイド:中野さんがディスクユニオン渋谷2号店の店長をやっていたのは、いつからいつまでなんでしょうか? その時の2号店はどんな感じだったのでしょう? 関西人としては、ユニオンがいっぱいある関東はうらやましいのです。
メカノ:
93年ユニオン・テクノ・コーナー前 |
店長就任当事の渋谷2号店は現在のあのビルの地下ワンフロアで、インディーズの店でした。その頃渋谷の中心は公園通りの方で、宇田川町って裏通りだったんですよ。なにしろ隣りは畳屋だったし。そもそも私はユニオンに入る前にバンドやってたんで日本のバンドの事は多少詳しかったんです。インディ店長として色々な企画をやりました。CD購入者特典でビデオ上映会とか、オリジナル・グッズとか、サイン会とか、一日店長とか。結構喜ばれましたよ。でもバンドブーム後期はキつかったなぁ。ゴミなバンドがやたら出てきて(笑)。
そういった仕事で稼いで、店の端っこに趣味のテクノコーナーを始めた訳です。最初はレコードとCDたった一列でした。テクノポップなんて全然CDになってなかったし、LPも廃盤だらけだったんで。しょうがないから中古も混ぜて、当事誰もテクノとは呼んでいなかったクラスターとかもルーツとして入れたんですよ。そしたら何故か良く売れました。後にわかったんですが、買っていたのって田中雄二さんとか、ケン・イシイさんだったんです。クラフトワークの『The Mix』は91年リリースでしたが、その頃はもういっぱしのコーナーになっていました。面白かったですよ。リリースされるもの全て、「ドイツ盤の英語版」とか「アメリカ盤のみ一曲MIX違いの12インチ」とか「カセット・シングル」なんてのを仕入れる度に砂原良徳君とかトランソニックの永田君なんかが走って買いに来てくれましたね。アメリカのレジデンツ・ファンクラブにコンタクト取って、FCオンリーのCDやグッズを仕入れて売ったりもしました。
あと私は永年の平沢進ファンですから、当然ヒイキして品揃えをしてました(笑)。リリースの度に何かしら特典を付ていたら固定客が雪ダルマ式に増えてくれて、しまいには事務所から話をもらってレーベル「DIW/SYUN」というシリーズを17タイトルもリリースすることになりました。で、グループ全体のテクノ担当として95年いっぱいで店から本部へ移動になるまで、約7年間ですね。2号店は。
ガイド:
雑誌『レコード・コレクターズ』で連載している「レコ屋日記」も読ませていただきましたが、中古レコード屋に勤めたきっかけはとにかくレコードを聴きまくりたいという不純な動機だったと書かれていますね。ユニオンに居た時代、1日に何枚くらい聴いていたんですか?
メカノ:
店にいる10時間前後は連続して何か音楽がかかっていますよね。自分の好みでなくても同僚がかける何かを常に聞いてきました。だから私はクラッシュだろうがストーンズだろうがオジー・オズボーンだろうがブルーハーツだろうがあらゆるアルバムを聞いて知っています。仕事を始めたのは84年でしたが、中古も扱ったために古いカタログも含めジャズ、ブルース、ソウルなどもです。さらに自分の趣味でも店頭でかけられない非ポップなものを一日3枚借りて家で聴いて、他に新譜も旧譜も買っていましたから、寝るか、メシ食っている時間以外は音楽聴いていました。当事はTV持っていませんでしたから。音楽ビデオが見たかったんでしかたなく買いましたが、アンテナに繋いだのは3年位後でした。