——最終的にCrammedからのデビューとなるわけですが、それぞれのレーベルからはどのような反応があったのですか?
デモを送ってから、すぐにCherry Redからコンタクトがありました。とても気に入ってくれたこと、何度も聴いてくれていること、ロンドンに来たら必ずCherry Redに立寄ってほしいという内容で、パーソナルな、ある種ファンレターに近い手紙でした。
Crammedからは最初はリアクションがなかったのですが、後にハネムーンキラーズが来日した時にわたしの方から再度アプローチしました。マーク・ホランダーは、わたしのデモは聴いてくれていたのですが、実際に出会うまではそれほど興味を持ってもらえてなかったようです。
本命(だった)Crepusculeからは何の連絡もありませんでした。
でも3つだけ送ったレーベルのうち2つから何らかのリアクションがあったのですから、これはサクセスストーリーだと自分でも思っています。そして最終的に選んだCrammed Discsが最良の選択だったので、わたしはとても幸運だったと思います。
——また、どうしてこれらの3レーベルにこだわったのでしょうか?
本能のような直感としかいえないのですが、わたしが大切にしているエスプリ(精神)を3つのレーベルは持っていて、当時の音楽に表現されていたような気がしたのです。
『La Debutante』にはいろんなものが凝縮されているのに、不思議な統一感を持っている「宝箱」のようだと、人によく言われます。わたしは自分が美しいと思っているもの、ちょっぴり純粋すぎて恥ずかしくなるかもしれないもの、そういった精神(魂)世界を美しい音楽に昇華させたかったのです。ただ、それはあまりにもパーソナルなものなので、理解されにくいだろうという予感はありました。でも、同じ魂の原型を持っている(大人だけど子供の心を忘れていない)人々には絶対に理解してもらえると思っていました。
わたしの創るものは音楽という形をとっていますが、音楽だけでは構成されていません。「折衷主義というよりポストモダーンの典型であり、ひとつの芸術」とコリン・ニューマンは語っています。当時、フランスの音楽批評の中で最高峰とされていたリベラシオン紙上に「80年代アンダーグラウンドミュージックの古典となる事を運命づけられた傑作」という賛辞をもらったのはそういうことがひとつの理由だと思うのです。
Crammed Discsの人々はそのわたしの気持ちを真摯に受け止めて美しいアルバムに結晶させてくれました。本当に感謝しています。
——レコード・デビューが決まってから、実際のリリースまでどのくらいかかったのですか?
実際にCherry Redからコンタクトがあってからアルバムが完成するまでに4年ほどかかりました。
——初めに日本で製作されたアルバムは没となり、ベルギーでのレコーディングになるわけですが、内容はどのように変わっていったのですか? かなり、紆余曲折があったみたいですね。
最初は佐藤薫氏がプロデューサーとしてCherry Redから出すというプロジェクトで、京都と東京のスタジオで録音しました。次がモーガン・フィッシャーで、彼とは京都で一緒にステージで共演し、その後東京のスタジオでレコーディングしました。
Cherry Red側の意向とこちらの意向(佐藤氏とわたし)がちょっと違うな、と思いはじめた頃、ちょうどハネムーンキラーズが来日して、会ったら意気投合したのでCrammedに移籍することになったのです。
Crammedに向けてのレコーディングは、佐藤氏と日本で録音したものをベルギーで出すという話で進められていたのですが、マークが仕上がりに納得せず、とても長い間保留になってしまいました。それから半年だったか1年だったか忘れましたが、わたしが個人的にパリのソルボンヌ大学の夏期講習を受けに行くことになった時、佐藤氏と一緒に録音したマスターテープを持ってCrammedに直談判しに行ったんです。そうしたら「これじゃあダメだから、もう一度ここで録音し直してほしい」と言われて・・・。それでまた「最初からやり直し」という事になりました。ネヴァー・エンディングストーリーみたいでした。