——Crammedからのデビュー前は、京都を中心に活動されてたんですよね。当時の京都のシーンは、EP-4などトンガっていた印象がありましたが、どのような人脈の中で活動されていたんですか?
パブリックに音楽活動を始めたのは、1980年頃で"イントロン"というユニットが最初でした。このユニットとして、いくつかのギグと、「泡」という当時の前衛アーティスト(のいずんずり、メルツバウ等)を集めた2枚組コンピに参加した後、SONOKOとしてソロの活動を始めました。坂本龍一や立花ハジメ、ゲルニカ等と共演したのもこの頃です。
その当時、京都は日本の実験的前衛アートやオルタナティヴのシーンの中心に位置していたように思います。 EP-4、のいずんずり、アマリリス、スマッシュヒッツ、チルドレンクーデター、鼻たらし(後のボアダムス)、4D、アフターディナー、少年ナイフ等、周辺にいろんなバンドがこのシーンにいました。わたしがよくライヴを共演したり、仲良くしていたのはアマリリスのアリス・セイラーで、彼女とはガーデニアエンジェルズ(パレストリーナやグレゴリア聖歌などの中世音楽を歌う女の子ばかりのコーラスバンド)でも一緒に活動しました。
アリス・セイラーとは、出演者もお客さまにもクリスマスプレゼントを持って来てもらって交換をするという"クリスマスコーリング"というイベントや、"ロリータシンドローム"という女の子バンドが出演し、フランス映画(「死刑台のエレベーター」)も楽しむという"ひな祭りイベント"等を一緒に企画しました。出演したイベントで楽しかったのは、神戸の北野サーカスというギャラリーのクリスマス・イベントです。古い教会の中でオルタナティヴのバンド(私はガーデニアエンジェルズの一員として)が出演しました。毎日が移動祝祭日という感じの日々でした。
——日本ではオムニバスへの参加はされていますが、どうしていきなり海外のレーベルからのデビューを目指されたのでしょう?
最先端の前衛音楽のシーンに身を置きながらも、わたしはあまりアンダーグラウンドで前衛的な雰囲気が好きではなかったのです。
わたしの音楽は、大好きなフランス映画やシュールレアリズム文学やアートの耽美な世界によく似た、ヨーロッパのレーベル、CrepusculeやCherry Red、Crammed Discsのレーベルのアーティスト達が作り出す世界に共通していると思いました。自分の活動範囲を海外に広めたいと特別意識したわけでもなかったし、海外のレーベルだから選択したわけではありません。自分の音楽と似ているというそれだけの理由だったのですが、わたしにとっては、自分が描いた絵に合った額縁を選ぶようにとても自然で当たり前の事でした。
——1984年にCherry Red、CrepusculeそしてCrammedにデモテープを送られていますが、それはどのような内容だったのですか?
最初のデモは、学校の春休みの間にラジカセをピンポンして作ったかなりアヴァンギャルドなものです。基本的にはわたしのお話と歌を録音したもので、ピアノと姉のエレクトーンをベースに、オルゴール、おもちゃの楽器、カリンバ、鈴、ハンドベル、鉄琴、ヴァイオリン等、アコースティックな楽器を生録りして作りました。SONOKOとしてデモテープを作ったのはこれが初めてで、とてもエキサイティングな体験でした。
大好きな人魚や、天使、おとぎ話や妖精の囁き、子供の残酷さや永遠の時間を閉じ込めたもの、ロミオとジュリエットも、マルグリット・デュラスを真似たモノローグや、「ラ・デビュタント」のアルバムタイトルにもなったレオノーラ・カリントンの「初めての舞踏会」というお話の音楽付き朗読もすでにありました。
子供が眠りにつく前に聴く「お話テープ」に近いもので、クロード・ドビュッシーの「亡き女王のためのパバーヌ」や、ジェラール・フィリップの朗読した「星の王子さま」、デビッド・ボウイの「ピーターと狼」、マルグリット・デュラスの「インディアソング」等のように、「音楽と語り」で構成されたもの、声そのものが”音楽の一部”といったようなものです。