『BLUE TRAIN』コルトレーンが残したハードバップの傑作
■ジョン・コルトレーン『BLUE TRAIN』ジョン・コルトレーン『A LOVE SUPREME』に続いてコルトレーンの作品を取り上げる。といっても時代はぐっとさかのぼって、1957年。日本人が初めて南極に上陸し、東海村では初めての原子力発電所に火が灯った。ソ連はスプートニクの打ち上げに成功した、そんな年の話である。
録音の2年前の55年、マイルス・デイヴィスのグループに参加したコルトレーンは散々な評価を浴びていた。マイルス自身もこの時期のコルトレーンの演奏が拙かったことは認めているが、その後の成長を確信して起用を続けている。56年から57年にかけて、彼はプレスティッジとブルーノートにおいて、現在では信じがたい本数の録音を行った。この後、マイルスグループでのモード奏法の展開などを経て、じょじょに人気を獲得し、コルトレーンの時代への道が開いていくのだが、今振り返るならば、この期間こそが、その序章であったということができるだろう。
ハードバップの申し子、アルフレッド・ライオン
さて、56~57年に数多の録音を行ったトレーンだが、ブルーノートでの唯一のリーダー作となったこの作品の出来栄えは群を抜いている。コルトレーン自身の演奏が他の作品に比べてとりわけすばらしいというわけではなく(もちろんすばらしいのだが)、コルトレーン以外の参加メンバーの出来と、その結果出来上がった一テイク一テイクのクオリティがあまりにもすばらしいのである。さまざまな人が何度となく繰り返し指摘していることだが、ブルーノートというレーベル、アルフレッド・ライオンというプロデューサーがジャズという文化にかかわったことの意義は、この作品ひとつ取り上げるだけでも充分に検討に値するだろう。
同じメンバーを同じ日に集め、同じ曲を選んだとしても、「集めた人間」が誰かということで、演奏は180度違ったものになってしまう。『BLUE TRAIN』が、いまある形と違う形でわれわれの前に残ってしまったとしたら? 世の中にこれほど不幸なことはそうない。
レコーディングを前にして、プロデューサー、アルフレッド・ライオンが行ったことは何だろうか。リーダーであるコルトレーンと何を話し合ったのだろうか。ライオンのやったことはたくさんあるが、たった1つのことでもある。
曲を絞り込み、アレンジをメンバーにしっかりと周知する。OK。あとは好きにやってくれ。だらだらとはさせないが、締め付けすぎてはいけない。大切なのはバランスとモチベーションであり、そのための最良の方法は、個々のメンバーが、リーダーとプロデューサーを信頼することである。「気持ちよくレコーディングができた」と個々のメンバーが感じること。それはプロデューサー、アルフレッド・ライオンの真骨頂であり、つまるところブルーノートが牽引したハードバップとは、「そういう」音楽だったのだと、私は考えている。
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