楽器をコントロールする技術と、ジャズをジャズたらしめる技術
ジャズにおける演奏技術についての混乱は、ジャズにおける「テクニック」や「技術」という概念のなかに、純粋に楽器をコントロールするということ以外の要素が含まれていることにあると私は見ています。自分の弾きたい音を弾き、止めたいところで止める。極端にいえば、楽器の「演奏技術」というのは本来、これに尽きるわけです。
では、どこで弾き、どこで止めるのか。クラシックの場合のそれは「楽譜のとおり」ということになるわけですが、ジャズのような即興演奏音楽の場合、そういうわけにはいきません。どこで弾いて、どこで止めるかという判断の中身が問われてきます。おそらく、かなり多くの人が、この「どこで弾いてどこで止めるか」という判断まで含めて「演奏技術」と呼んでいるところが、ジャズの場合混乱の元になっている。私はそう考えています。
どこで弾いてどこで止めるか。この判断は本来、即興演奏においてはまったく自由であるはずであり、その良し悪しはあくまで聞き手の判断に委ねられるものであり、演奏技術の良し悪しのように客観的に比較したり、評価することができないものであるはずです。しかしジャズの場合、このことがはっきりとした評価対象になる。いうなれば、ジャズにおける「技術」は、ジャズ独特のリズム感とか、音楽スタイルと不可分だということです。
何を弾き、何を弾かなかったのか。これが評価できる、ということは、ジャズにおけるインプロヴィゼーション(即興)とは、即興であると同時に、即興でない性質(客観的評価が可能)を併せ持っている、ということもできるでしょう。
楽器の上手さ、ジャズの上手さ
ジャズの即興演奏の良し悪しは一定の基準で判断可能であり、だからこそ、ジャズ演奏においては、インプロヴィゼーションの内容まで「技術」として評価を受けることがある。チャーリー・パーカーによって爆発的な可能性の広がりを見せたジャズ・インプロヴィゼーションは、今やそのシステムを完成させているかに見えます。だからこそ、ジャズインプロヴィゼーションの教則ページを見ると、外国語を習得するかのように、その習得方法が解説されており、実際、そのメタファによって効率的にジャズ・インプロヴィゼーションを習得することは可能です。
ニューオリンズジャズからハードバップまで、連綿と築き上げられてきたジャズミュージックのグルーヴは、リズムはもちろん、フレージングのパターンや音の強弱にいたるまで、「緩いルール」に縛られている。そのルールの支配力は、まさに言語のそれに似ている、ということなのでしょう。「絶対君主」とまではいえませんが、少なくとも、「それ」から外れてしまった演奏は、少なくとも演奏技術が稚拙であるかのように聞えてしまう、そういう枠組みを、ジャズという音楽は持っているわけです。
となれば、ジャズ演奏において、「技術」が単に「楽器のコントロール技術」だけを指さない、ということは仕方のないことなのかもしれません。ジャズのリズム、メソッド、イディオムを含めた「緩いルール」を再現する能力。ジャズにおける演奏技術には、そういうものが暗黙のうちにカウントされている。私はそのように考えています。
純粋に楽器をコントロールする技術。これは、どんな音楽に取り組むにせよ、必ず必要となるものです。しかしながら、そのことと不可分のものとして、ジャズ独特のリズム、ジャズ独特のグルーヴが身についてしまうとすれば……それは必ずしも、すべての人にお勧めできることではありません。我々日本人にとって英語が外国語であるように、ジャズは外国語です。外国語を身につけたい人や学びたい人はともかく、そうとしらずに、それをただただ受け入れてしまっているとすれば? ジャズを演奏するなら、それは避けられないことであると同時に、自覚しておくべき事実であろうかと思います。