「ジャズはアートであるべきだ」
本書における高柳の主張を要約すると以下のようなものとなる。・音楽は個人の思想を表現するための手段である。
・それゆえ、音楽家には表現手段を磨くという意味での楽器の修練はもちろん、ありとあらゆる音楽に対する分析、理解のための絶え間ない努力が求められる。
・さらに、聴衆・批評家にも、音楽家と同レベルでの、音楽理解への絶え間ない努力が求められる。
この時点で、「ついていけない」と感じる人も多いだろう。私だって似たかよったかである。しかし私は、こういった高柳の極端な主張が、
・ジャズを含めた「音楽」とは、アートであるべきであり、エンターテイメントであるべきではない
という、確信に基づいているということに気がついたとき「なるほどなあ」と感心した。これは過激な主張である。音楽はアートであり、同時にエンターテイメントである。そんなことは当然のことだと思っていた。しかし、少なくとも50年さかのぼれば、そうじゃない、と考えていた人はいたわけである。エンターテイメント性が音楽のアート性を損なうことは往々にしてある。そのことを極度に嫌う人々がいたことに、何の不思議もないではないか。
私はどちらかといえば「エンターテイメントがなくて何がジャズだ」と思っている人間だし、本ガイドサイトもそういう趣旨で運営してきた。しかし、この高柳の「確信」に触れてみて初めて、「ジャズとはアートであるべきで、エンターテイメントであるべきではない」という主張も「アリ」なんじゃないか、ということを考えるようになった。
別に宗旨変えをしたわけではない。端的に、これらの発言に触れ、少なからずショックを受けたということを告白したいだけだ。誤解を恐れずにいうなら、これほど率直で素直な音楽論に、これまで触れることがなかった自分を取り囲む環境とは何なのか、という疑念を抱いたのだ。「音楽とはアートであり、エンターテイメントではない」といった論くらい、誰かがのたまっていてもおかしくないではないか。しかし少なくとも私は今まで、ここまでストレートな意見を聞いたことがなかった。
次ページでは、高柳に触発されての「アートとして音楽」論を展開してみます