近藤がもし『忠臣蔵』の芝居を観たことがあるのなら・・・と推定をしてみる。
近藤の出身地は多摩。この子供時代に地元の宮地芝居などで観ているという可能性もなくはない。『仮名手本忠臣蔵』は義太夫狂言の中でも上演頻度の非常に高い演目だ。これは江戸時代も現在もそう変わることではない。また、義太夫狂言は「型」がしっかり決まっているため、素人がまねしてやってみても”なんとかなる”という面がある。現在でも各地地方の芝居小屋で地元の人々が祭りの際に演じているのは義太夫狂言であることが多い。そういう類の公演で近藤も忠臣蔵を観たことがあるのかもしれない。
また、近藤は父の影響で、歴史が好きだったという。『三国志』や『水滸伝』は父から読み聞かされた作品だったようだ。『忠臣蔵』の物語ももちろん知っていただろう。主君・塩冶判官の恨みをはらす家老・大星由良之助に憧れを抱いていたかもしれない。近藤の、「ご公義」に対する厚い尊敬の念や、時代を憂えていたらしい様子を思うと、由良之助には並々ならない共感を抱いていただろう。
近藤が江戸にいた時期をざっと表にしてみた。
1834年 天保5年 近藤勇 武州多摩郡上石原村に生まれる。
1848年 弘化5(嘉永元)年 11月11日 天然理心流 近藤周助の門に入る。
1849年 嘉永2年 近藤勇、周助の養子となる。
1861年 文久元年 府中で勇は天然理心流四代目に襲名を披露。(28歳)
1863年 文久3年 2月 近藤勇ら、江戸で募集された浪士組一行が江戸を出発。
柳町の市谷甲良屋敷に、近藤の養父・周助の住居があったという。現在の地下鉄の牛込柳町駅の近くで、寺町のそばで近藤たちは青春時代を過ごした。1849年から1863年まで14年間、近藤が柳町の道場から、猿若町(現在の浅草)の芝居町へと出かけていったことがあってもおかしくはないだろう。
稽古の後に芝居町へ?
近藤勇が京都に上る以前、江戸は市谷柳町にあった天然理心流の道場の様子を伝える一文が残されている。
「近藤勇は、剣術道場を開いて毎日、盛んに稽古をしていたが、稽古が終わると門弟たちは国事を議論して国を憂えていた」(永倉新八の手記『浪士文久報告記事』より)
そんな国事を議論していた仲間たちと観に行ったのか、あるいは一人で出かけたか知る由もないが、時間と自我と体力をもてあました青年たちがいつも道場にゴロゴロしていたことは間違いない。天保の改革で芝居小屋は猿若町へ集められた時期でもある。吉原見物も兼ねて、何人かで繰り出したこともあるだろう。・・・と勝手に想像していく。
顔見世時期に作られた番付 |