歌舞伎/歌舞伎関連情報

江戸東京博物館「市川團十郎と海老蔵」展(2ページ目)

5月11日~6月27日まで、江戸東京博物館の第2企画展として「市川團十郎と海老蔵展」が開催されています。同館の収蔵品のうち市川家ゆかりの錦絵、版本など貴重な資料を今だからこそ見ておきましょう。

執筆者:五十川 晶子

四代目 四代目を襲名したのが二代目松本幸四郎。二代目團十郎の落胤だとか、いろいろ出生に説がある。44歳での襲名。それもちょっと特色のある團十郎だった。もとは実悪という役柄を得意とした松本幸四郎だったため、荒事のほかに景清や曾我ものの工藤祐経、『菅原』の松王丸などの、ちょっと複雑な性根を持つ役柄の充実・名人ぶりで名をはせた。また後進の指導に尽力したことでも知られ、初代中村仲蔵や四代目松本幸四郎もこの門下だった。彼らとともに中村座に長年続けて出演しつづけ、黄金時代を築いた。

五代目 四代目の息子である。太田南畝ら、田沼時代の当時第一級の文化人たちとの交流で知られる。
立役として女形の先輩特許であった舞踊劇を演じたり、世の中の様々な職業や風俗を描いた役役を演じて分けてみせた。初代、二代目のような業績はみられないが、江戸の町そのものや劇壇・文化人を象徴する存在として注目された。

六代目 早世し、寛政12年(1800)には七代目が十歳で襲名。五代目は七代目の後見となりながら向島で俳句や狂歌を作り余生を送る。
文化三年(1806)に没する。

七代目 10歳で團十郎を襲名する。当時の劇界には五代目松本幸四郎、三代目坂東三津五郎、五代目岩井半四郎、三代目中村歌右衛門、三代目尾上菊五郎という名優がきら星のごとくいた時代。ライバルだらけである。七代目は新作『勧進帳』をプロデュースし、「市川家歌舞伎十八番」を制定した。市川宗家のレパートリーはもちろん、江戸歌舞伎の代表者たる決意の表明のようなものか。
また初代、二代目と続いてきた江戸歌舞伎創始時代への回帰、あるいは江戸歌舞伎の原点への意識が生まれてきた。
しかし天保の改革により、奢侈の生活をとがめられ、江戸を追放となる。晩年江戸へ戻ることを許され安政6年(1859)没する。




(上)七代目市川團十郎の『暫』 初代歌川豊国画(1813年) (6月は同シリーズの『助六』を展示予定)
(下)「俳優畸人伝」立川焉馬著 (1833年)



八代目 美貌で有名である。天保3年(1832)に十歳で團十郎を襲名、七代目が海老蔵を名乗った。この八代目はハンサムな上に親孝行者で有名で、幕府から親孝行で表彰されたという。また得意の役に『与話情浮名横櫛』の与三郎がある。だが八代目は大坂の舞台で大当たりをとった後、安政元年(1854)の8月、宿で自殺をする。この死は多くの謎を秘めており、いまだにその原因は明らかになっていない。
一生独身だった美貌の八代目の死を悼み、多くの「死絵」が出版され、その戒名を書いた紙が大売れだったという。

ちなみに江戸東京博物館の今回の展示を企画運営し、「ミュージアムセミナー」の講師を勤められる学芸員の粟屋朋子さんに「どの團十郎が一番イケメンだったんでしょうかね」と、ミーハーな質問をすると、粟屋さんはそっと「個人的には八代目ではないかと思いますが・・・」と照れながら答えてくださった。一生妻帯せず、幼い頃から七代目の庇護の下に芸の精進にまい進して来たという恵まれた人生、そして錦絵など多くのメディアの中で成長してきたことも見逃せない。親孝行なのに自ら命を絶ち、親に先立ったという悲劇も、八代目を伝説の人物にしているのかもしれない。
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