世界遺産/中国の世界遺産

蘇州古典園林/中国(2ページ目)

マルコ・ポーロが「東洋のヴェネツィア」と称した水の都、蘇州。豊富な水を利用して自然美を再現したその庭園は、「江南の庭園は天下一、蘇州の庭園は江南一」と絶賛された。今回は水の楽園に花開く天下の名園「蘇州古典園林」をご案内します!

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

自然を愛した蘇州の文化人たち

洞窟をイメージした丸い穴を抜けると、まったくの別世界が広がっている。換景と呼ばれる技法だ。拙政園にて

拙政園の回廊。光と景色が漏れる漏窓というすかし窓は、ひとつとして同じデザインがないという。回廊を回っている間に気分を高める技法は障景と呼ばれる

蘇州の歴史は春秋戦国時代の紀元前514年、呉王闔閭(こうりょ)がこの地を整備したことからはじまるという。この頃生まれたのが臥薪嘗胆(がしんしょうたん)のエピソードだ。父・闔閭を殺された息子・夫差(ふさ)は、越王勾践(こうせん)への復讐を誓って薪の上に寝て身を痛めてその苦しみを忘れず、やがて夫差に破れた勾践は肝を吊るして屈辱を噛みしめていた。

復讐を誓った勾践は、夫差をたぶらかそうと中国四大美女にも数えられる絶世の美女・西施(せいし)を送る。夫差はこの計に見事にはまり、西施に骨抜きにされてしまい、やがて呉は勾践に滅ぼされてしまう。

夫差が西施に贈った離宮が蘇州にある霊岩山の館娃宮だ。ふたりはこの山から紅葉に色づく水の都を眺め、愛を誓い合ったのだろう。現在も残っている山頂花園は館娃宮の遺跡だといわれている。

闔閭の築いた姑蘇台、夫差の館娃宮以降、多くの庭園が蘇州に造られることになる。現存するもっとも古い庭園は世界遺産に登録されている滄浪亭で、1044年の建築だ。

蘇州古典園林の庭園文化

洞窟をイメージした丸い穴を抜けると、まったくの別世界が広がっている。換景と呼ばれる技法だ。拙政園にて

洞窟をイメージした丸い穴を抜けると、まったくの別世界が広がっている。換景と呼ばれる技法だ。拙政園にて

自然を畏敬し、自然を愛した人々が、その美を自分の敷地に閉じ込めようと工夫を凝らしたのが庭園という空間だ。

中央に池を配し、水路を張り巡らして湖沼・河川とし、周囲には小高い丘を山に見立て、岩々で峰を、木々で森や林を表現した。四季それぞれで景色が移り変わるように花木や広葉樹を並べ、壁で園内をいくつにも区切ってそれぞれにテーマを持たせ、時間と空間が移り変わるたびに姿を変えるように設計した。

こうして自然の景観を切り取って、それぞれの景色を絵のように再現することを「画境」という。植物はもちろん、魚を放ち、野性の鳥が行き来するよう設計して自然の命を表現することを「生境」という。そして造園主が全体を通してテーマを与え、何かを主張することを「意境」という。庭園は単に自然のミニチュアであるだけでなく、自然美のエッセンスを抽出したアートであり、造園主の心を表した文化でもある。

園外にある北寺塔を見せることで奥行きを演出する借景を利用した拙政園の景色 ©牧哲夫

園外にある北寺塔を見せることで奥行きを演出する借景を利用した拙政園の景色 ©牧哲夫

これらを実現するために、自然に見える庭園には、実は様々な技巧が凝らされている。壁を区切って景色を変える「換景」、回廊を巡らして次の景色に接続する「障景」、園外の景色を利用する「借景」、窓から見える景色を絵に見立て、窓枠に工夫を凝らして眺めを楽しむ「框景(きょうけい)」など、眼の錯覚を利用したり、気持ちを盛り上げたり、造園主は庭園の隅々にまで気を配り、3境を満たそうとした。

造園するということは、自然を旅したり、その記憶をたどったり、本を読んだりして知識を増やすだけでは足りず、庭園という形で何かを身近に感じつづけていたかったという証でもある。いったい何を感じたかったのだろう? 世界遺産は知識を増やすだけではけっして理解できはしない。ぜひ蘇州の庭園を静かに眺め、彼らが閉じ込めておきたかったものを感じとってみてほしい。 
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