親が先生を見下すワケ
給食費の不払いや、「義務教育は無償なのだから、部活のユニホームを学校で洗濯しろ」などのクレームなどは、保護者の教育観というよりはむしろ常識の欠如やいいがかりに起因していると言えそう。ただ、学校の教育内容への過度の口出しは「親なのだから口出しする権利がある」という意識や、個性的な教育観が暴走した形と言うことができそうです。不登校・いじめの子どもへの対応を迫るものなどは、解決されない不安が積もり、不満の形となって爆発しているもの、そして「ウチの子が写真の中央に写っていない」などの言いがかりは家庭での過保護な感覚がそのまま漏れ出た結果といえるでしょう。
教育社会学者 苅谷剛彦氏と、教育ジャーナリスト 増田ユリヤ氏の共著『欲ばり過ぎるニッポンの教育』では、英語や学力重視教育、徳育教育など、親の教育不安からくる「あれもこれも」のアラカルト志向が教育の現場を圧迫しているのだと指摘されています。
本来は家庭でなされるべきことを、家庭では行わずに学校に要求したり、「先生なんだから、とにかくなんとかして」と詰め寄ったりするのは、どこか「これは自分の子どもの問題であり、親の問題でもある」という当事者感覚に欠けた、店でサービスを受けるお客様感覚。誤解を恐れずに言うならば、そのお客様感覚でいるからこそ、学校教員は「先生」ではなく店員やサービス窓口、学校長は「支店長」のような認識で、それこそ商品の欠陥を責めたり返品交換を迫る消費者のようなクレームが成立してしまうのかもしれません。
また、保護者が高学歴化することによって、学校教員への見方が厳しくなったという意見もあります。学校教員の相対的な立場が一般の保護者に近くなるにつれ、「先生=聖職」の価値観が薄れてきている点は否めません。
「教育に効率を」教育再生会議 VS 「素人が口出しするな」教育界
昨秋、安倍内閣肝いりの教育再生会議が発足し、そのメンバーには教育界で話題の専門家以外にも、民間企業のトップやビジネスの専門家、子どもを持つ著名人など、様々な人材がズラリと顔を揃えました。また、昨今は政財界のトップが現代の教育に一言もの申すという風潮もあり、本来そのポジションが持つ重要性とも相まって、その一言が大きな影響を持つことがあります。
教育の専門家ではない、いわゆる教育素人が教育に意見することによって、硬直したシステムの見直しや、より現代的な価値観にフィットした教育観の形成ができるなどのメリットがあるのは確かです。しかし、教育界、特に文部科学省の中央教育審議会などのオーソドックスな教育の専門家からは、「素人が教育に口を出すのはどうか」という苦言が呈されることも、ままあります。
みんなが通る道である教育には、みんながそれぞれの意見を形成しているもの。そういった性格から、教育はあちこちで話題になりやすい分、現場はしわ寄せを受けているのかもしれません。
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