助からない人が来ないように祈る
事件後、1人医師の病院は産科閉鎖となることがぐっと増えたので、そのような出産環境は減っています。でも、限界を知りながら、稀なケースに当たらないように祈りながら小さい規模でお産をにない続ける医師は今も日本中にいます。医師の総数が少ない中、集約化も限界があるのです。
今回の判決に対して医師の組織はそろって歓迎の声明を出しました。しかしそこに明るい空気は流れていないような気もします。それは、たくさんの医師が限界を承知で針のむしろに座ってお産に向かわなければならない状況は、今日も明日も、何も変わらないからでしょう。
色あせていく安全神話
産む側の人にとっても、この事件は、病院出産の安全神話というファンタジーが色あせていく退色の始まりだと思います。まず助からない状況でも医師に「もしかしたら」と言ってくれることを期待するのが患者心理だと思いますが、大野病院事件発覚後、ネットではたくさんの医師ブロガーたちが、自分たちの救命の力はいかに限られているかということを詳細に書きました。
医療失望の時代へ
悪質な医療が起訴され始めて医療不信が始まったころは「悪い医者がいるんだ」と思えば、医療そのものへの失望は起きませんでした。結果が悪いことの原因を特定個人に帰しておけば、医療はすごくありがたいものだ、妻は、娘はそれに守られているんだ、という希望は守られます。
しかし今、この事件を機に、ごく普通の別に悪い医師でもない医師にかかっても悲しい事態はあるのだということが広く知られていくのでしょう。これからは、医療不信ならぬ医療失望のようなものがゆううつな黒雲のように産む人の頭上をおおうのではないでしょうか。
「出産のリスクを理解してほしい」と医師たちは訴えてきました。でも、それはかみしめてみれば失望の味なのだということを、今さらながらに感じます。