昭和初期から整備されてきた
住宅街には緑も豊富
一戸建てメインの住宅街。マンションなども3階、4階まで。高い建物がなく、空が広い
商店街を抜けると緑の多い住宅街が広がります。地図をご覧いただければ一目瞭然ですが、上用賀3丁目から6丁目までは道路が碁盤の目状に配された整然とした区画となっており、区画整理が行われたことが分かります。世田谷区は、かつての玉川村、世田ヶ谷町、駒沢町、松沢村が合併してできているのですが、この辺りはそのうちの玉川村に当たるエリア。そして、玉川村は他エリアに先駆けて耕地、区画整理(以下区画整理と略す)に取り組んだことで知られています。
ケヤキの巨木のある、緑濃い一画にはかつての名主宅が。近くには玉川村村長旧宅の標識などもあり、区画整理当時の村関係者が地域の偉人として扱われていることが分かる
大正12年には玉川村村会は区画整理に取り込むことを議決しており、昭和3年からは実際の事業が行われ、用賀エリアの区画整理が始まったのは昭和9年から。当時の玉川村は用賀、瀬田、野良田、上野毛、下野毛、尾山、等々力、奥沢の各村が合併したもので、現在の世田谷区の4分の1ほどの広さがありました。しかも、この区画整理は驚くべきことに国の事業ではなく、村の事業。いかに、この地域の人たち、特に事業を推進した村の関係者がいかに先進的だったかが分かります。
農地の多かった世田谷区には曲がりくねって方角が分かりにくい道が多いが、この辺りは逆にまっすぐな道ばかり。並木のある道も
その結果、玉川エリアは昭和20年代に非常に高い人口の伸び率を示しています。この時期は世田谷区全体でも昭和20年~22年だけで28%もの人口増があった(総務省国勢調査)そうですから、区画整理が済み、宅地開発を待つばかりだった玉川エリアではそれ以上の増加があったことでしょう。
砧公園、馬事公苑に農地も残る、
緑の豊富な街並み
駅近くから砧公園の正面まで続く用賀プロムナード。足元には百人一首が順に書かれている
そうした住宅街の中でひときわ目を惹くのは砧公園に向かう用賀プロムナード(通称いらか道)です。これは昭和61年に世田谷美術館が砧公園内にオープンした際に同時に整備された、用賀駅北口と砧公園を結ぶ遊歩道。瓦を敷いた道の途中には水場があったり、鬼瓦が飾られていたりと歩くのが楽しくなる仕掛けもあり、子どもの遊び場にもなっています。
公園の中には川も流れているほどの広さ。巨木が多く、とても都内の光景とは思えない
いらか道を抜けると環状八号線を挟んで向かいに広がるのは都立砧公園。戦後都民ゴルフ場に使われていたという緩やかな起伏のある公園は桜の名所でもあり、季節になると広い公園が花見客で埋め尽くされるほど。美術館、サイクリングコース、バードサンクチュアリなどもある園内を抜けると、区立大蔵運動公園、厚生年金スポーツセンターなどもあり、ファミリーやスポーツ好き、散歩好きには楽しいエリアです。
馬事公苑周辺には規模の多いマンションが多く、中には築年数が経っていても人気の物件も
また、用賀駅から通常馬事公苑通りと呼ばれる通りを北に向かうと、こちらも桜の名所、馬事公苑があります。世田谷区のイベントなどもよく行われる場所で、近隣には商業施設やレストランなどもあります。用賀に住めば、この2つの広大な公園を庭代わりに使えるということでしょう。
都市の農地だけに種類は豊富。野菜以外に花卉などを育てている農家も
もうひとつ、この地域には農地も多く残されており、野菜などの直売所などを見かけることもしばしば。自分で野菜作りを楽しめる区民農園もエリア内にいくつかありますから、土に親しむ暮らしもできる場所とも言えそうです。
最後に気になる東急田園都市線用賀の住宅事情を見て行きましょう。