『マリー・アントワネット』
9月14~30日=博多座、10月8日~11月25日=帝国劇場、12月10~21日=御園座、2019年1月1~15日=梅田芸術劇場メインホール『マリー・アントワネット』の見どころ 『エリザベート』や『モーツァルト!』等、数々のヒット作を生み出してきたミヒャエル・クンツェ&シルヴェスター・リーヴァイが、遠藤周作の小説『王妃マリー・アントワネット』をミュージカル化。2006年に東京で初演した歴史ロマン大作が、海外での上演、ブラッシュアップを経て、再び上陸します。
フランス革命にまつわるミュージカルは『ベルサイユのばら』に始まり、これまで多数上演されてきましたが、本作は王妃マリー・アントワネットと庶民の娘マルグリット・アルノ―という、対称的な身分の二人の“MA”を中心に据えた物語。革命の発端、そしてそれが狂気を帯びて展開してゆく様を、社会の頂点と最下層双方の視点をもって描き、歴史のダイナミズムを迫力をもって描きます。また王妃とフェルセンの悲恋も、リーヴァイの甘美な旋律でロマンティックに描写。今回は新曲も追加され、演出にロバート・ヨハンソン、タイトル・ロールの花總まりさん、笹本玲奈さんほか豪華な出演者を迎え、よりドラマティックな舞台が生まれそうです。
『マリー・アントワネット』観劇レポート:重厚な歴史絵巻を通して投げかけられる“現代世界”への痛烈なメッセージ
民衆の囁きとも呪文ともつかぬ声に、ギロチンの落ちる音が重なる。不穏な空気とともに幕が上がると、下手バルコニーの上でフェルセンがマリー・アントワネット処刑の報に接する姿が。衝撃を受けながらも、彼は14歳で政略結婚の道具としてオーストリアからつかわされた王妃の半生を振り返る。フランス国民に愛されようと努力し続けるも思いが伝わらず、逆に搾取の象徴として憎悪の対象となっていったのはなぜなのか……。 スウェーデン貴族、つまり外国人であるフェルセンの視点を支柱としながら、今回のロバート・ヨハンソンによる新演出版は、特権階級の代表たるマリー・アントワネットと庶民代表であるマルグリット・アルノ―双方の運命を交錯させ、フランス革命の当事者たちを客観的に描写。 その善良さと無知につけこんだ取り巻きたちに利用され、悪政の根源に仕立てあげられてゆくマリーの悲劇、貧しさと格差に対する憎悪に支配され、真実を見る目を持てずに暴走してゆくマルグリット、そして彼女が象徴する当時の民衆の悲劇を、鮮やかに対比させています。名曲が揃うなかでも注目の「遠い稲妻」
40曲以上に及ぶシルヴェスター・リーヴァイの楽曲はどれも力強く、ミュージカル・コンサートで歌われることも多い「100万のキャンドル」など名曲揃いですが、中でも今回、注目されるのがフェルセンの新曲「遠い稲妻」。マリーに向け、なぜ状況が理解できないのかともどかしく歌い、メロディ的にもきれいに締めくくらず思いをたたきつけるように途切れ、インパクトを残すこの曲には、ここで生き方を変えればあの悲劇は避けられたという、作り手たちの視点が覗きます。 生澤美子さんによる衣裳が特権階級側、庶民側双方とも当時の資料をもとに、細やかに作り込まれて目を奪うのに対して、舞台美術(松井るみさん)はアクティング・スペースをたっぷりととり、開放的。終盤、マリーが断頭台に向かって一人、歩くシーンでは舞台中央の盆舞台がゆっくり回りますが、その大きさゆえ、なかなかたどり着かない。その間にマリーの受けた屈辱、最後の尊厳、民衆の狂気が交錯し、シンプルでダイナミックなセットがひときわ活きる光景となっています。
花總マリー、笹本マリーそれぞれの魅力 メインキャスト4役がダブルキャストとなっており、それぞれの個性が組み合わせによって異なる響きを生み出しているのも本公演の魅力。マリー・アントワネット役の花總まりさんは王妃という役柄へのフィット感はもとより、序盤における無邪気さから王妃・妻・母・女性としての葛藤、極限に追い込まれてから現れる人間としての真価まで、その口跡、歌唱、たたずまいを通して丁寧に、細やかに表現。 いっぽう笹本玲奈さん演じるマリー・アントワネットはフレッシュにして風格と華やぎを備え、登場時の“今は母となり、私も変わりました”という歌詞が以前、マルグリット役を演じていた笹本さん自身と重なり、感慨を抱かせます。 そのマルグリット役を今回演じるのはソニンさん、昆夏美さん。ソニンさん演じるマルグリットには、王妃というターゲットを定めたことで水を得た魚のように民衆を生き生きと扇動する姿に凄みがあり、この聡明な女性の能力が別の形で開花できていたら、と環境の影響の大きさを思わずにはいられません。 対して昆さん演じるマルグリットは、社会への憤懣を抱えていた彼女が、贅沢三昧の王妃を憎み、体制転覆のため声をあげる姿をひたむきに、力強く描写。しかし囚われの身となった生身の王妃と接し、彼女を裁く革命家たちの欺瞞を目撃するうち、主体的に生きてきた筈の自分もまた時代のうねりに取り込まれていたことに気づき、忸怩たる思いに駆られてゆく過程を鮮やかに描き出します。 フェルセン役の田代万里生さん、古川雄大さんはともに軍服姿に清潔感があり、登場の度にヒロイックな風が吹きこまれますが、「遠い稲妻」の最後、“あなたには届かないのか”では田代さんが焦燥と怒り、古川さんが絶望を滲ませた歌声となっており、マリーに対するスタンスの微妙な違いがうかがえます。歌唱における田代さんの力強さ、古川さんの高音における切なさの表現もそれぞれに魅力的。 王妃の夫でありながら彼女の求める愛を与えることができず、フェルセンという半ば公然の恋人の存在を許していたルイ16世については、資料によってさまざまな見方があるようですが、今回、佐藤隆紀さん演じるこの人物はいかにも生まれながらの王という、おおらかな品格を湛えつつも時折ちらりと寂しさを覗かせます。 また原田優一さんが演じる同役は“ここではないどこか”“こうではない自分”への願望を吐露するナンバーを狂おしく歌唱。表現は異なりつつも、それぞれに王の孤独をリアルに体現しています。
演技巧者たちが劇世界に与える奥行き 王妃お抱えのヘアドレッサー、レオナールと衣裳デザイナーのローズ・ベルタンは、権力者に取り入り、潮目が変わる瞬間を見逃さないしたたかなキャラクター。演じる駒田一さん、彩吹真央さんは他演目で共演を重ねていることもあってか、息もぴったりに狡猾なキャラクターをコミカルに、どこか憎めない存在として演じています。 マルグリットを革命運動に巻き込む詩人ジャック・エベール役の坂元健児さんは、彼女を利用しているつもりがどこか完璧さを欠くキャラクターを人間臭く演じ、マルグリットに対してどのような感情を持っていたのかと想像させます。 王妃の側近ランバル侯爵夫人役の彩乃かなみさんは、マリー・アントワネットにとって唯一心を許せる存在であった女性を、たおやかな中にも芯の強さを見せつつ表現。 そして同じ貴族でありながら、ルイ16世の失脚を画策するのが吉原光夫さん演じるオルレアン公。いわゆる“悪役”でありながら、2幕頭のオルレアンのナンバー「世論を支配しろ」の曲調には、例えばアニメ主題歌のようなヒロイックな爽快さがあり、吉原さんがダイナミックに歌唱。彼は彼なりの正義と理想を追い求めていたのかもしれないと気付かせます。
ダイレクトに現代人に突き刺さるメッセージ マルグリットという実在しないキャラクターを通して史実とフィクションを巧みにあやなし、世界史の流れを変えたとされる革命の本質に、人間の心理の側面から迫る本作。終幕には登場人物たちが正面を見据え、客席に向かって歌いかけますが、その歌詞は“どうしたらこの世界変えられるか”“どうすれば止められる、暴力の連鎖を”……と、かつてないほど直接的です。 決して過去の出来事をロマンティックに振り返るだけでなく、その先に現代社会、現代人に対する強いメッセージがあるミュージカル。来年、日本に上陸する『笑う男』にも共通する、ロバート・ヨハンソンの演出姿勢を痛感させられる幕切れです。
*次頁で『マリー・アントワネット』製作発表レポートをお届けします!