美輪明宏 スペシャル・インタビュー後編
美輪明宏 長崎県出身。16歳で銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」にて歌手デビュー、「メケ・メケ」のヒットの後、不遇の時代を経て自ら作詞作曲した「ヨイトマケの唄」が話題に。寺山修司の舞台作品や三島由紀夫脚本の『黒蜥蜴』など、多数の舞台・映画に出演。87年にはヨーロッパでもリサイタルを開催。12年にはNHK紅白歌合戦に史上最年長で初出場した。撮影:御堂義乗
フランス人の“民族性”の理解無しにシャンソンは歌えません
――美輪さんやピアフの歌に触発され、シャンソンを歌ってみたいと思う若い世代も少なくないと思いますが、その真髄、芯にあるものは何でしょうか。『愛の讃歌』
またある時、イギリス人のダンサーたちと仕事をしていて、彼らと仲良くなろうとパーティーを開いたら、一組の親子だけ来ないんですよ。どうしたんだろうと思って迎えに行ったら“私たちはイングリッシュではない、スコティッシュだ、だからイングランド人たちと同席のパーティーには出たくない”と言うんですね。“だってあなた、一緒に“God Save The Queen”を歌っているじゃない”と言ったら“私たちが歌っているクイーンのはエリザベス女王ではない、メアリー・スチュアートだ“と言うんです。メアリー・スチュアートって、約500年前にエリザベス1世に殺されたスコットランド女王ですよ。まだそれを恨みに思っているんです。
そういったことがあるから、最近、アメリカの無知な大統領がエルサレムをイスラエルの首都として認める認めないという発言をして大問題になっているのも当然だし、フランス人にはフランス人の歴史と誇りとがあります。それを理解せずにシャンソンを歌うわけにはいかないんです。日本で有名な歌手が、若い時に不勉強で、器用さや才能だけでやってきて、ある日パリでピアフのコンサートを聴いて“私には何もない”と打ちのめされたそうですが、そのつらさはわかりますね。自分にきちんとした基盤が無くて、いい加減な鼻歌を歌ってたと自覚したときのつらさは。」
――美輪さんご自身はそういった思いを抱いたことは?
「私は無いですね。お隣が映画館で、小さいころからフランス映画はしょっちゅう観てましたし、小学校の頃からクラシックを先生について学んできました。フランス語も中学で3年間やって、実際にフランス人たちとお付き合いしてボーイフレンドもいましたし(笑)、ヨーロッパに行って演奏もしましたしね。譜面も読めますし、作詞作曲もできますから」
――美輪さんの舞台『愛の讃歌』にお話は戻りますが、本作では「愛の讃歌」「バラ色の人生」をはじめ、ピアフのレパートリーが6曲程度歌われます。どのように選曲されたのでしょうか。
「(数を絞り込んだのは)何十曲も歌う必要はあるだろうか、彼女の生涯に一番かかわった曲だけ選べばいいと思ったわけです。まず「バラ色の人生」ですが、ピアフはこの曲で世に出たんですね。無名のピアニストの引き出しから譜面を見つけて、彼女が詞を書いて。それが(第二次大戦後の)占領下のパリで、アメリカの兵隊たちにもてはやされ、アメリカにわたっていろんな歌手が歌ったことで、彼女は世界的な大スターになったんです。だから1幕の最後は「バラ色の人生」で終えています」
――2幕終わりの「愛の讃歌」についてはインタビュー前編でお話いただきましたが、そのほか「ミロール」「アコーディオン弾き」「水に流して」または「愛する権利」といった曲が歌われます。
『愛の讃歌』過去の舞台より。写真提供:パルコ劇場
「「ミロール」はジョルジュ・ムスタキの作品だけど、彼もピアフのボーイフレンドの一人であったんですね。(結婚に敗れた男ミロールを励ます)娼婦の歌だけど、ピアフは子供の頃、(祖母がやっていた)女郎屋さんに預けられていて、そこでの生活が体にしみこんでいたから、こういう歌を表現するのはお得意でした。ユーモアソングが流行っていたころの昭和初期の歌にも、ちょっと似ているんですよ。
「アコーディオン弾き」は間接的な戦争反対の歌です。娼婦が愛するアコーディオン弾きが兵隊にとられて帰ってこない。彼のいない場所では別の男がアコーディオンを弾いている。彼女はそこで踊るのだけど、たまらなくなって“音楽をやめて!”と絶叫するという歌ですね。従来、この曲を入れていた場面を今回は変えるかもしれませんので、この曲をどうするか、稽古場で決めようと思っています。
「愛する権利」はメッセージソングです。もともとは普通の男女の愛する権利を歌っていて、“誰も私たちの愛を引き裂くことはできない”というメッセージソングだったのですが、今はグローバリゼーションの世の中だからもうちょっと広げた方がいいなと思って、LGBTが叫ばれるずっと前からの、私のイデオロギーを付け足したんです。ホモセクシャルであろうとレズビアンだろうと、人間が人間を愛している、誰かを殺したわけでも盗んだわけでもない、それの何が悪いんだ、それをしたり顔して裁くようなこと言ってる人は傲慢であって、宇宙の法則を知っていればたじろがないのだ、ということを。
宇宙の法則を少し説明すると、太陽、月、火星水星木星金星……星々でさえ、一つ一つ全部違いますよね。地上の動物だって、同じイヌ科と言っても狼もいればシェパードもチンもチワワも、トイプードルも秋田犬もいて、花だって百花繚乱、一つとして同じものはないんですよ。それだのになぜ人間だけが、ナチスみたいに同じ思想で同じ性癖、同じ趣味で同じものを食べて“ハイル・ヒトラー”なんですか。今もクローン人間みたいに大勢で同じ方向を向いて同じ顔をして同時に笑顔を見せる国があるけれど、気味が悪い。
人間をみんな同じにしようというのは傲慢以外のなにものでもないし、いずれそういうものは滅びます。それを訴えるべきだと思ったから、女が女を、男が男を愛したって、人間同士が愛し合うことに変わりはない、殺したわけでも盗んだわけでもないという歌詞を入れたんです。後で作家のなかにし礼さんが“原詞より素晴らしい”と絶賛して下さっていましたけれど。
『愛の讃歌』過去の舞台より。写真提供:パルコ劇場
公演によってはこの曲でなく、「水に流して」を歌うこともあります。「水に流して」というのは、テオ・サラポに支えられてピアフが再出発した時に歌った曲なんですね。“自分の人生で後悔することは何もない、あなたと二人で再出発していくんだ“という歌詞です。サラポの看病で元気になって、再出発した時、彼が20歳年下だというのでスキャンダルになったんですね。“子供をだまして”と心無い人に言われて、それに対する反論として私は最初に「愛する権利」を歌うことにしたのだけど、一般的にフランスでは「水に流して」のほうが彼女の代表曲として浸透しているんです。エッフェル塔の上で彼女が再起した時に歌ったのが伝説になっていますね、音源が残っていますが。すごい巻き舌で歌っています」
――もう一つ、劇中に登場する曲として「群衆」という曲がありますが、群衆の中で“私”が出会いと別離を体験するという、ちょっと抽象的で幻想的なナンバーですね。
「そういった曲も、よく“美輪さんが歌うと目の前にその光景が広がります”とおっしゃる方が多いですね。この曲はシャンソンではなく、もともと南米の歌なんですよ。ピアフが南米に演奏旅行にいった時にこの曲を聴いてパリに持ち帰って、フランス語の詩をつけて歌うようになったんですね。
わたくしが歌う時に頭の中で描いているのは、一つには『天井桟敷の人々』という映画なんです。ナチスに反抗する映画人たちが結集して作った映画で、世界の最高傑作のひとつだと思っていますが、一部・二部に分かれていて、膨大に長い作品なんですね。その最後で、伯爵の囲い者になっているギャランスという鉄火な女が、パントマイムの名優とつきあっていて、女房子供がいても平気なんです。それが、祭りの日に彼の奥さんが、子供をつかいによこすんですよ、“パパを返してほしい”というようなことで。
ギャランスは、女同士だったら張り合って別れないつもりでいたけど、子供を見た時に決心してね。何も言わず、彼が追いかけてきても馬車に乗って、祭りの最中の群衆の中へと行くんですよ。その場面が、ものすごく遠くの方まで、撮影監督の目が行き届いているんです。よくぞ戦争中にこんなに莫大なお金をかけて作れたなと思うのだけど、それもナチスに対する反抗心からだったらしいんですね。主演女優のドレスの布地がなくて、カーテンを壊して作ったという逸話もあるくらいで。その群衆の中を馬車がだーっと走って行って、主人公が“ギャランス、ギャランス”と叫びながら群衆に突き飛ばされるというシーンがあるんですよ。それが一つ。
撮影:御堂義乗
もう一つ、戦前のアメリカ映画で、こういうものがあったんです。不細工なお針子の女の子が、祭りの日に仲間はみなボーイフレンドに連れられていくのに、一人だけしょんぼり町を歩いていて、お面を売っている店に通りかかる。きれいな女のお面に惹かれて店に入ると、誰もいないのに“それを貸してあげるから祭りに行きなさい”という声が聞こえるんです。ドレスのほうは、その前にお客が置いていってしまったのがあったから、それを着てマスクをして祭りに出かけてゆくと、押し合いへし合いの賑わい。その中に一人すごいハンサムがいて、恋愛になるのだけど、祭りが終わって店にお面を返しに行くんですね。
素顔の自分を彼が見たらこの恋は終わるのだろうと思ってお針子は悲しいけれど、借りたものだからと置いていくと、“鏡を見てごらん”と老人の声がする。お針子の顔が、きれいな女の顔になっているわけ。そして彼女は喜んでボーイフレンドと町へ消えていく……。この映画とも重なっているんですよ。こうした、私の頭の中の映像を、歌うことで写し絵のようにね、テレパシーでお客様に送れたらいいと思っているんです」
――今回の『愛の讃歌』は、全体的にブラッシュアップされるそうですね。
「以前は3時間半もかかっていて、お客さんも役者さんも大変だから(笑)、もうちょっと凝縮してと、刈り込みをやっています。ただ、ただ短くなったから薄められたような感覚は持ってもらいたくないので、そこは構成をやり直して、気を遣っていますね」
表現者・“美輪明宏”を突き動かすもの
『黒蜥蜴』写真提供:パルコ劇場
「個人的には何も思ってないんですよ。ただ、なぜでしょうね。人形浄瑠璃の人形みたいに、なにものかに突き動かされちゃうんですよ(笑)」
――その原動力は何なのでしょうか?
「深層心理をたどって行くと、それは私の(歩んできた)歴史でもあるし、責務でもあると思いますね。
最初に気が付いたのは、銀巴里(注・1951年から90まで銀座にあったシャンソン喫茶店。三島由紀夫ら文化人のサロン的役割も果たした)にいた時です。ここは階段の下に受付があって、お客さんがお金を出して切符を買い、中に入って飲み物を飲んで歌を聴いて帰るというシステムだったんですが、そこに冬場、アイヌの青年たちがやってきていたんですよ。夏場は(彼らの故郷に)観光客が来るけれど、冬場は吹雪や何かでスキーの有名なところ一か所くらいしか人が来なくて暇だから、東京に仕事を求めてきていたんですね。その中の何人かがシャンソンのファンで来ていて。
ある日、受付のおばさんと私がお喋りしていたら、彼らが来たんですよ。握りしめていたらしくてくしゃくしゃになったお札を出して、恥ずかしそうにして中に入っていったんです。次の男の子も同じようにくしゃくしゃになったお札を出して、それをおばさんが一枚一枚のばしていた。あの子たちが汗水たらして働いて得たお金がこれなんだと思った時に、それまで“上手でしょう、聴いてください”みたいな気持ちで歌っていたのが、頭を殴られたような気がして、急に恥ずかしくなっちゃったんです。自分はこのくしゃくしゃのお札に値する歌を歌っているんだろうかと。これは一生懸命、このお金と同じ分量で、精魂込めて歌わないと私は詐欺師になってしまう、と思ったんですね。それが、一番の根底にありますね。
それから、実家の隣には劇場があって、幼いころしょっちゅうそこで遊んでいたのだけど、芝居小屋には丸山の女郎たちとか、いろんな連中が来て、それぞれに事情を抱えているんですよ。芝居を観ていると、その筋によっては自分の経験と重なって泣いている人もいて、お客さんの一人一人が、芝居の登場人物と重なってくる。その“共感”に、芝居が入場料をいただくだけの価値が出てくるのだと思うんですね。そうでないと詐欺ですよ。ふんだくるだけじゃ(笑)。
『黒蜥蜴』写真提供:パルコ劇場
家の隣が劇場で、小さいころからフランス、ドイツ、日本の素晴らしい映画をたくさん見させられて、家の前にはレコード屋さん。ドイツ映画の主題歌から端唄長唄まで、毎日聴かせられていて、近所の料亭からもちんとんしゃん(三味線)が聴こえてくる。暁星の姉妹校のカトリックの中学に行ったら、それまで禁じられていた英語フランス語の授業が復活してフランス語を勉強して。東京に来て銀巴里で歌うようになったら、江戸川乱歩さんと知り合って。
後に、江戸川乱歩さんの書いた『黒蜥蜴』を当時、売り出し中だった三島(由紀夫)さんが戯曲化して、水谷八重子さんがおやりになった(主演した)んだけど、“これあんたがやったほうがいいような役よ”とおっしゃって、やる気がなかったけどやることになってしまって。そこにもう一人、寺山修司も来ていて、私のために戯曲を書いてくれて“芝居をやろう”というので、(『毛皮のマリー』等の)アングラの芝居をやって。やったものは全部大当たりして映画も撮って。
それから、子供の頃、近所に……学校のそばに貧しい人たち、ヨイトマケのおばさんたちの集落があって、その子供たちが同級生にもいたことで、後年「ヨイトマケの唄」を作詞作曲するに至った。まるで神様が、全部おぜん立てしてくれていたみたいに……。
そういうものすべてに、私は突き動かされているのかもしれません。『愛の讃歌』もそれらの結晶、というわけです」
*公演情報*
2018年美輪明宏版『愛の讃歌』~エディット・ピアフ物語~ 3月31日~4月15日=新国立劇場中劇場、4月20日=日本特殊陶業市民会館ビレッジホール、5月26日=福岡市民会館、6月1~3日=梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ