70、80年代ヒップホップ……初期の音を築いたプロデューサーたち
70年代中頃に、NYはサウスブロンクスで誕生したヒップホップ。その人気は瞬く間に世界中に広がり、たくさんのアーティストが名曲と共に、約40年の歴史に名を刻んできました。アーティストや名曲を知ってはいても、その曲を誰が作ったのかに関しては、なかなかの音楽好きでない限り、気にすることはあまりないかもしれません。ですが、ミリオンセールスを記録したアーティストだって、いいプロデューサーにめぐり合わなければ、日の目を見ることなく終わっていたかもしれない。プロデューサーの存在と功績は、アーティストと同じくらい、とても大きいと言えます。
というわけで、ヒップホップのヒット曲を作ったプロデューサーたちにフォーカスを当て、時代ごとに当時の名曲を振り返ってみたいと思います。初回はヒップホップ初期の70年代、80年代の活躍が目立ったプロデューサー4名をご紹介します。
<目次>
ヒップホップ初期の火付け役・シルヴィア・ロビンソン
ザ・シュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」(1979年リリース)は、ヒップホップを初めて世の中に知らしめた伝説の曲。ヒップホップを知らずとも、冒頭の「I said a hip hop Hippie to the hippie……」というフレーズを耳にしたことがある人は多いのではないでしょうか。ちなみにこの曲は、2011年にアメリカ議会図書館にNational Recording Registry(国立録音登録簿)として収められた歴史的な曲の一つでもあります。The Sugarhill Gang - Rapper's Delight
「Rapper's Delight」をプロデュースしたのは、シルヴィア・ロビンソン。彼女は、1950年代半ばにR&Bデュオ「Mickey & Sylvia」のシンガーとしてデビューし、「Love Is Strange」などのヒット曲を出しました。その後もソロアーティストやプロデューサーとして活躍し、1974年に初のヒップホップレコードレーベルとなるシュガーヒル・レコードを当時の夫のジョー・ロビンソンと共に設立。
ファンキー 4 + 1 の「That’s the Joint」(1980年)や、 グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴの「The Message」(1982年)、ザ・トレチャラス・スリーの「The Body Rock」(1984年)など、ヒップホップ初期に数多くの名曲をプロデュースしました。惜しくも2011年にこの世を去りましたが、 その存在は“The Godmother of Hip Hop”として今でも多くの人の胸に刻まれています。
Grandmaster Flash & The Furious Five - The Message
多くのデフ・ジャムの名曲を生み出したリック・ルービン
ヒップホップを代表するレコードレーベルを挙げるとしたら、Def Jam Recordings(デフ・ジャム・レコーディングス)の名前は欠かせません。レーベルの創立者は、リック・ルービン。彼もまた、ヒップホップ初期のプロデューサーとして多くのヒット曲を生み出した一人です。元々はパンクバンドのメンバーであったルービン。ヒップホップに出会い、衝撃を受け、1983年にデフ・ジャムを設立します。そして、LL・クール・Jの「I Need a Beat」(1984年)に始まり、ビースティー・ボーイズの「(You Gotta) Fight for Your Right (to Party!)」(1986年)、ランDMCの「Walk This Way」(1986年)など、誰もが知るヒップホップのクラシックをいくつも作り出し、当時のデフ・ジャムのビジネスパートナーであったラッセル・シモンズとともにヒップホップをメジャーに推しあげていきました。
Beastie Boys - (You Gotta) Fight For Your Right (To Party!)
RUN-DMC - Walk This Way
ちなみに、のちにラッセルとの見解の違いにより、ルービンはデフ・ジャムを離れることに。1988年にDef American Recordings(現American Recordings)を設立し、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ミック・ジャガー、トム・ペティ、メタリカ、リンキン・パーク、ディクシー・チックスといったロックやメタル、カントリー界の大物アーティストの曲をいくつもプロデュースしました。
“ブリッジ戦争”の発端となる曲を作ったマーリー・マール
クイーンズブリッジ団地の出身で、若い頃からDJとして頭角を現していたマーリー・マール。同じくDJ のMr.マジックと共に、「ジュース・クルー」なるチームを発足し、チームメンバーであるMCシャン、ビッグ・ダディ・ケイン、ビズ・マーキー、クール・G・ラップなど、多くのアーティストをプロデュースしました。マーリー・マールの名を世に知らしめたMCシャンの「The Bridge」(1987年)は、ヒップホップ発祥の地を巡り、クイーンズのジュース・クルーと、KRS・ワン率いるサウスブロンクスのチーム、ブーギー・ダウン・プロダクションズの間で起こった“The Bridge Wars(ブリッジ戦争)”の発端となったもので、ヒップホップ史を語るに外せない一曲。
同じく、マーリープロデュースによるビッグ・ダディ・ケインの「Ain't No Half-Steppin」や、ビズ・マーキーの「Nobody Beats the Biz」、LL・クール・Jの「Mama Said Knock You Out」(1990年)なども、オールドスクールヒップホップのクラシックとして、語り継がれる名曲です。
LL Cool J - Mama Said Knock You Out
PEの衝撃的サウンドを築いたザ・ボム・スクワッド
ザ・ボム・スクワッドは、80年代半ば以降その活躍が目立ったグループ、パブリック・エナミー(Public Enemy。P.E.としても知られる)のサウンドを築き上げたことでよく知られるプロデューサーチーム。ちなみにパブリック・エナミーは、社会やメディアへの批判など政治色の強いメッセージを訴えかけ、世論を生んだグループで、彼らの声はザ・ボム・スクワッドの作る衝撃的なサウンドと合わさって、大きなインパクトを人々に与えました。ザ・ボム・スクワッドのメンバーは、ハンク・ショックリー率いる、キース・ショックリー、パブリック・エナミーのリーダー、チャックD、エリック“ヴェトナム”サドラーの4人(94年以降はG-Wizらのメンバーが加わる)。彼らが手がけた曲で最もよく知られるのは、パブリック・エナミーの「Don’t Believe the Hype」(1988年)、「Fight the Power」(1989年)でしょう。それらが収録されているアルバム「Fear Of a Black Planet」は、2005年にアメリカ議会図書館にNational Recording Registry(国立録音登録簿)として収められました。
Public Enemy - Don't Believe The Hype
彼らはほかにもスリック・リックの「Teenage Love」(1988年)や、90年代以降も、アイス・キューブの「AmeriKKKa's Most Wanted」(1990年)、2パック主演の大ヒット映画「Juice」(1992年公開)のテーマ曲でもあるエリック・B. & ラキムの「Juice (Know The Ledge)」などをプロデュースし、活躍を続けました。
Ice Cube - AmeriKKKa's Most Wanted
Eric B. & Rakim - Juice (Know The Ledge)
彼らのほかにも、スリック・リックやEPMD、KRS・ワンなど、アーティストでありながら自身で曲のプロデュースも手がけ、ヒット曲を生み出したアーティストもたくさんいました。また、ドクター・ドレやDJプレミアなどのように80年代後半から、主に90年代以降の活躍が目覚しいプロデューサーも多くいます。
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