ビートルの開発に関わったふたりのキーマン
フォルクスワーゲン・ビートル。1938年の誕生以来、世界中で愛され続けている名車には、少し悲しい史実が隠されていたことをご存知でしょうか。フォルクスワーゲン・ビートルはその独特なスタイリングから生まれた愛称で、型式はタイプ1。まさにフォルクスワーゲン車の第1号となるモデルです。
もともとこのクルマが誕生した背景には、ふたりの中心人物がいます。
ひとりは当時ドイツ政府のトップとして君臨したアドルフ・ヒトラー。もうひとりは同じ時代を生きた天才的エンジニアであるフェルディナント・ポルシェ博士。そしてふたりを結びつけたキーワードは「国民車構想」です。ちなみにフォルクスワーゲン・タイプ1という名称は第二次世界大戦後にフォルクスワーゲン車の生産が本格的に再開された後に付けられたものですが、ここではわかりやすさを優先して、すべてタイプ1と表現します。
「一般市民もクルマを所有し、休日には家族でドライブ旅行に出かけてほしい。そうすることで産業が発展し国家が豊かになる」
そんな国民車構想にもとづき、ドイツ政府はポルシェ博士にクルマの開発を依頼しました。ポルシェ博士は、ダイムラー・ベンツ社の技術責任者として優れたレーシングカーの開発によりエンジニアとして脚光を浴びました。その後独立して個人事務所を開設してからは、彼のアイディアと技術力を求めてさまざまな自動車メーカーから開発の依頼が寄せられたのですが、そのうちのひとつがドイツ政府でした。しかもポルシェ博士は、自身でも「広く一般の家庭でもクルマのある豊かな生活を味わってほしい」という考えがありました。ヒトラーとポルシェ博士、両者の思いが合致したことも国民車構想がスムーズに進行し始めた理由といえるでしょう。
その際のオーダーは、一般の労働者でも手の届く低価格(現在の貨幣価値で100万円弱)であること。おとな4人もしくは、おとな2人と子供3人が快適に過ごせる車内空間をもつこと。最高速度100km/hで安定した高速走行ができること。低燃費であること。故障のリスクが低いこと。故障をしても修理しやすいこと…などでした。つまり、現在のファミリーカーに求められる要件とほとんど変わらず、先見の明をもった開発目標だったといえます。
ではなぜ、ヒトラーはこのような構想を掲げ、国民車の開発に着手したのでしょうか? 理由はふたつあります。
ひとつは国民の多くが週末や休暇を利用してドライブ旅行に出かければ、その行程で観光し土産を買い、食事をして宿泊をします。そうすることで、ドイツという国全体が活性化していき国益の増加が見込めるという国威発揚の考えです。そのためにヒトラーは自動車専用道路である“アウトバーン”を国内に建設しました。そのアウトバーンも、当時の諸外国にはない「高速で快適に長距離を移動するため」という斬新なアイディアに基づいていました。
ふたつめの理由は、国民車構想を掲げることでドイツ国民からの支持を集めるためです。自家用車で家族とドライブ旅行に行くことなど夢のまた夢だった国民にとって、モチベーションや国家に対する忠誠心が高まるというわけです。自家用車を購入するという目標を明確にするために、政府は購入資金を貯めるための貯蓄制度を推奨しました。国民は、毎週定額を貯金しながら1940年から始まる納車を心待ちにしたのです。
国民のためのクルマが、軍事利用に……。
ところが、1939年の第二次世界大戦勃発とともにその方向性は大きく変わってしまいました。本来、週末に家族の笑顔を乗せてアウトバーンを疾走していたはずのタイプ1は、軍用車に姿を変えて戦場で活躍を始めました。戦場のひとつとなった北アフリカ戦線においては、空冷エンジンとRR(リヤエンジン+後輪駆動)というパッケージが抜群の機動力を発揮し、敵を翻弄したというエピソードも残っています。F・ポルシェ博士とタイプ1
じつに残念な話ですが、タイプ1が軍用となることでその後の市販化に向けてプラスとなることもありました。それは、機動性や信頼性を市販車の比ではないほど徹底的に追求されたことです。それにより大戦後にフォルクスワーゲン・タイプ1としてデビューした際にも、その完成度の高さは他メーカーの比ではなく、その後ベストセラーカーとして君臨する理由のひとつともなったのです。
もうひとつ幸いなことがあります。晩年のポルシェ博士は、1945年から生産が再開されたフォルクスワーゲン・タイプ1の姿、そして息子のフェリー・ポルシェが指揮を執り1948年から生産が始まったポルシェ356の姿を見ることができたということです。そして、自身の夢であった国民のためのファミリーカーと、高性能スポーツカーの実現を見届けた翌年、ポルシェ博士はこの世を去りました。
■写真提供:フォルクスワーゲン グループ ジャパン株式会社