「歌」という感覚の無い、
感情にフィットしたバーンスタインの旋律
『ウェストサイド物語』撮影:下坂敦俊
「ラテン・ダンスは私も初めてだったので、歴代のベルナルドのお一人で今回演出・振付助手を務められた加藤敬二さんや、キャストの中でスパニッシュ・ダンスの経験のある人に、いろいろこつを教えていただきました。肘を張るとか顎を引くとか胸を高く、といったことを意識することで、ニュアンスが出てくるんですよね。何度も鏡を見ながら研究しましたし、今も研究中です。体育館のシーンなどで私たちのラテン・ダンスと(欧州系の)ジェット団のダンスの違いを感じていただけたらいいなと思います」
――バーンスタインの音楽はいかがでしょうか?
「彼の音楽は気持ちが高ぶった時に上昇したりと、不思議と歌を歌っている感じがしないんですよ。その時その時の感情が自然とメロディにフィットしてくる気がします。ピアノの前で練習ということが今回は少なくて、稽古の中で、芝居の流れで、自分の感情が高まってきて台詞では抑えられなくなってメロディになっていったという感じです。メロディ自体歌いやすく、それがバックミュージックにもうまくつながっているんですよね。歌に対するストレスは今回ほとんど無かったです。
(この作品では)随所に不協和音がちりばめられています。プエルトルコ系と欧州系の二つのギャングの対立を見事に表現していて、何かよからぬことが起きるのでは、という不安定さが漂っているんです。あと、アニタが襲われるシーンではバックに「アメリカ」のモチーフが流れていて、心にぐさっと来ますね。1幕では“アメリカ最高”と歌っていた彼女が、そのアメリカであのような悲劇に遭ってしまうのですから…。しっかり演出に沿った作りになっているんですよね」
――今回、その彼女が襲われるシーンが“振付として見せる”形から、“薄暗がりの中でリアルに演じる”という演出に変わりましたね。
「真意は演出家しかわかりませんが、リアリティを出すというテーマの中でそうなったのかもしれません。この作品は1950年代の話ですが今にも共通することがたくさんあって、これが現実なんだということをジョーイからは何度も言われて、私もすごくそう思いました。目を伏せたくなるかもしれないけれど、オブラートに包むのではなくて本当に生々しいものを見せて“これが現実なんだ”、世界のどこでも起こってる、ということを包み隠さず見せたかったのかもしれません」
『ウェストサイド物語』撮影:下坂敦俊
「衣裳やセットといったビジュアル面は現代に近づけたい、ということはおっしゃっていましたね。振付の持つニュアンスとか台本のメッセージ性は全く変えずにしっかり守って、ビジュアル面は変えるということに彼はこだわっていました」
――社会的メッセージのある作品だと感じますか?
「メッセージ性はあると思います。今回は特に“痛み”が前面に出ていて、最後に誰も救われないことについて、ジョーイさんは“戦争では誰も勝者はいない”と言っていました。いつかこの作品が上演されなくなったり、まったく共感されない時代が来るといいんですが、今はまだ強く共感されるということは意味があるんだなあと思いますね。“古典”といってもいい作品なのに、今観ても共感できる。悲しくもありますが、私たちも上演する意義があるなと、使命感を強く感じます」
――ご自身の中で課題にされていることは?
「(初日があいて)一つ形になりましたが、毎回それをフレッシュに感じていくことですね。強いエネルギーを出すためには強く感じることが必要なんです。演じる側は次に何が起こるかわかっていますが、なるべく頭をゼロにもどして、その場で感じてその場にあるリアリティを信じるということに徹してやっています。その源になるのは、キャラクターへの共感ですね。今回、ジョーイさんがカンパニー全員に表に出てくる感情だけでなく、潜在的な意識まで丁寧に教えて下さいました。リフは帰る家がない孤独感から常に自分のまわりに誰かを置いておきたがるし、アクションも家で暴力をふるわれているから怒る以外の表現手段を知らない。ベルナルドも差別と偏見のためにプライドを傷つけられている。そういう背景を詳しく話しあって共通認識を持つことができたのは、今回のカンパニーの強みになっていると思います」
――観客には今回の『ウェストサイド物語』、どう御覧いただきたいですか?
「ジョーイさんの言葉を信じて私たちは連日、その場で感じた強いエネルギーを全部解放してやっています。考えさせる部分もある作品ですが、まずはそのエネルギーをそのまま感じて
いただけたらと思います」
*次頁からは岡村さんの「これまで」をうかがいます。ミュージカルに目覚めた快活少女は、高校卒業後、思い切ってアメリカへ留学。そこで学んだこととは?