江戸時代に埋立て、大名屋敷を経て
海軍の街、文化の窓口に

魚市場イメージ

市場があるのは5丁目、6丁目だが、その影響はかなり広範に及んでいる(クリックで拡大)

築地とはずばり埋立地のこと。東京の地名由来辞典(竹内誠編 東京堂出版)によると「万治元年(1658年)、木挽町(現在の銀座1~8丁目)の海側を埋立地(築地)としたことにより、この辺りを築地と俗に呼ぶようになったという」とのこと。現在は1丁目から7丁目までとなっており、築地市場、場外市場があるのは5丁目、6丁目。国立がんセンター、朝日新聞本社などがあるのが4丁目になります。この記事では町名は築地ではありませんが、7丁目と隣接する聖路加病院などのある明石町も含めて取り上げます。

 

江戸時代の築地

国立国会図書館デジタルコレクションより〔江戸切絵図〕 築地八町堀日本橋南絵図 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286660/1(クリックで拡大)

埋立後は次第に大名家の屋敷が増えたそうで、国立国会図書館デジタルコレクション中の江戸切絵図築地八町堀日本橋南絵図を見ると画面左中央部の隅にある、現在、浜離宮となっている濱御殿の対岸、現在の築地市場のあたりには尾張殿、松平安芸守、一橋殿、松平越中守などといった名まえが並んでいるのが分かります。

 
築地本願寺

明治から昭和に活躍した建築家伊藤忠太の作として知られる築地本願寺。様々なイベントも行われており、築地を訪れた際は訪ねてみるのも一興(クリックで拡大)

同じ画面の右手には本願寺が描かれていますが、本願寺が築地に移転してきたのは明暦3年(1657年)の大火(いわゆる振袖火事)の後。同時期には他にも移転してきた寺社があり、一番多かった時期には60に少し欠けるほどの寺社がある寺町でもありました。今も場外市場の中(!)には何軒かの寺社が残っています。ただ、残念ながら関東大震災からの復興のため、敷地を店舗として貸したり、ビルに建替え、移転などで目につかなくなっているのが現状のようです。

 

明治と現在の比較

左が明治時代、右が現在。比べてみると海軍関連の設備が現在の築地市場になっていることが分かる(クリックで拡大)

その後、幕末期に幕府軍艦操練所が現在の築地6丁目に作られたことから、明治以降海軍兵学校、軍医学校、兵学寮などが置かれ、海軍の街としても知られていたそうです。今昔マップon the webで1896年~1909年、現在の地図を並べてみると、ちょうど築地市場の辺りに様々な海軍関係の施設が集中しているのが分かります。逆にいえば、そうしたまとまった敷地があったから築地市場を作ることができたとも言えます。

 

発祥の碑

慶應義塾大学の前身がここにあったことを記念する碑。探してみると何々の発祥の地という碑は数多い(クリックで拡大)

また、明治期には30年ほど築地鉄砲洲(現在の町名では湊から明石町)に外国人居留地が設けられていた時期もあります。江戸から明治にかけての時代、築地は西洋文化の窓口とも言える場所だったわけで、立教大学、明治学院大学、青山学院大学、慶應義塾大学、暁星学園その他多くの学校がこの地で生まれています。実際、街中には今も居留地中央通りといった名称や立教大学、慶應義塾大学発祥の地などといった碑が点在、日本の技術、学問揺籃の地であったことを偲ばせます。

関東大震災を機に魚市場が移転、
今では観光地化

築地市場全体

勝どきのタワーから見た築地市場。非常に広い敷地を有しており、かつ低層の建物であることが分かる。環状2号線橋脚工事以前の撮影(クリックで拡大)

その築地に魚市場が移転してきたのは関東大震災がきっかけ。江戸時代から魚市場として栄えてきた日本橋が関東大震災で大被害を受けたためで、折から中央卸売市場の計画を進めてい東京市は日本橋の魚河岸、京橋にあった青物市場を築地に集中させることにしたのです。途中、芝浦への仮移転などを経て築地に広さ約23万平米の東京都中央卸売市場が開設されたのは昭和10年2月です。

 

場外市場の賑わい

最近では外国人観光客も増え、通勤ラッシュ並みの混雑が日常的になった場外市場(クリックで拡大)

都内に11ある東京都の中央卸売市場のうち、最古の市場であり、水産物、青果物を総合的に扱っています。供給圏は、関東近県に及んでおり、特に水産物については世界最大級の取扱規模なのだとか。最近では場外市場を目当てに朝早くから観光客が集まるようにもなっており、一大アミューズメントスポットとすら言えます。

 

看板建築

築地界隈に残された、いわゆる看板建築。写真は古い鶏肉専門店。クリスマス、年末前ということで買い求める人たちが行列を成していた(クリックで拡大)

しかし、ご存じの通り、築地市場は2016年11月上旬を豊洲への移転を予定しています。それによりより清潔で、広い市場にというわけです。これについては移転先豊洲市場の土壌問題、新しく作られる観光施設の運営問題その他問題が山積みですが、それは置いておくとして移転を前提とすると、場外市場は残るものの、街の雰囲気は大きく変わります。市場があることで周囲には食品、飲食関連の多数の店舗、事務所、倉庫その他がありますし、意外に小規模な工場なども多いのが現状ですが、移転となればこの地で営業を続けないことや廃業も考えられます。

 

古い木造建築

非常に少なくなってしまったが、こうした昔ながらの木造の民家も残されている(クリックで拡大)

それを懸念して築地に残る大正から昭和初期の約30の木造建築をワールド・モニュメント財団が危機遺産に選定したのは2015年10月。築地が高度経済成長期、バブル期にもあまり影響を受けずに昔ながらの街並みを維持してきたのは市場があったためと言われており、今後、それが無くなり、市場敷地跡に環状2号線が開通、さらに再開発が行われるとしたら風景は大きく変わるでしょう。

 
歌舞伎座の風景

10分も歩けば東銀座、銀座。安くはないがなんでも手に入る街が隣接する。もちろん、映画も歌舞伎も音楽も、いろいろな楽しみも揃っている(クリックで拡大)

築地らしい風景が消えることを深く、深く残念には思うものの、銀座に隣接し、首都高出入口のある交通の利便性、区役所などがある区政の中心地である生活の利便性、また、古い建物の耐震性を考えると、残す意思のある人が所有する建物や飲食店など転用されて生き残る建物がいくらかはあるとしても、全体としては風情は失われていくのだろうとは思います。もし、記憶しておきたいのであれば、来年の秋までにぜひ、現地を歩いてみることです。古い建物、路地のほか、意外に公園も多く、自然も楽しめる場所であることが分かります。

 

2010年前後からマンション建設が
徐々に増加中

建設現場

あちこちで建設中の現場を見かけた。住宅の他、立地を生かしてホテルなどの建設も進んでいる(クリックで拡大)

実際、街を歩いてみると小規模なビル、マンションなどを建設している現場が点在、空地、空き家となっている建物なども目につくように。すでに2010年頃から13棟ほどのマンションが販売されており、その動きは今後、さらに加速しそうです。

 
住環境のイメージ

通り沿いを中心に建てられているマンションが多いので、住環境として多くは期待しないほうが良いかもしれない(クリックで拡大)

供給の中心となっているのは40~60平米の単身者あるいはカップル向けの間取りですが、近年は70平米以上のファミリー向けの間取りも一定数含まれるようになっており、今後はさらに多様化が進むはず。価格的には50平米でも4000万円台後半くらいからです。新築が増え始めた時期が新しいので、それほど築年数を経た中古がないため、マンションの価格にはそれほど差がない印象。数千万円からの予算と覚悟してください。

 

勝どきのマンション群

対岸の勝どきではタワーマンション主体の開発が進んでいるが、築地では異なる形となるはずだ(クリックで拡大)

まとまった土地が少ないため、新築マンションといっても対岸の勝どきのような大規模な物件はほとんどありません。多くても100戸くらいまでが中心。今後もこの傾向が大きく変わることはないでしょう。

 
古い木造3階建て

昔は木造の住宅でアパートとして使われていたところもあったはずだが、現状、アパートはほとんど空きがない状態(クリックで拡大)

賃貸はワンルームマンションで7万円~。基本は単身者向きのワンルーム、1Kなどの間取りが中心ですが、中には2LDKなどカップル向きもあり、こちらは20万~30万円ほど。都心で利便性も、風情も欲しい人には非常に魅力的な立地ですから、それなりの賃料が必要というわけです。一時にすべてが変わるとは思えませんから、変化も含めて街の風情を味わいたいという人であればしばらく住んでみるのも良い経験になるのではないでしょうか。

 

公園とタワー

公園に飾られていたのはシーボルトの像。背後にはタワー。この間にある時間の長さを考え、今後の開発が行われるように祈りたい(クリックで拡大)

築地市場以前の歴史も踏まえて考えると、何度も変化してきた街築地。次なる変化がその歴史を踏まえたものであることを祈りたいところです。

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