ロス五輪代表にも!文武両道のエリート
元プロレスラーの馳浩文部科学大臣
馳大臣はまさにタレント=才能のある人……文武両道の人物です。プロレスラーになる前は地元・金沢の星稜高等学校で国語の教師を務め、84年のロサンゼルス五輪にレスリング・グレコローマン90キロ級代表として出場しています。
そして専修大学レスリング部の先輩である長州力が社長を務めていたジャパン・プロレスに85年8月に入団しました。当時、設立されたばかりのジャパン・プロレスには資金力がなかったため、契約金もなく、教員時代と同じ給料で入団を決意しています。「プロレスラーになるのは小さい頃からの夢でした。プロの体力、技術、精神力などを身に付けて、青少年に夢を与えるレスラーになりたいと思います」という入団挨拶は実に爽やかでした。
海外修行時代は、マスクマンとして活躍
その後、日本でデビューすることなく、約半年の練習期間を経て86年2月24日に先輩レスラーの新倉史祐とともにプエルトリコへ。同月28日に現地でデビューすると、10月にはカナダ・カルガリーに渡りました。カルガリーでは新倉と2人でマスクを被ってベトナム人のマスクマン・コンビのベトコン・エキスプレスに変身。同地区認定のインターナショナル・タッグ王者になっています。ベトコン・エキスプレスはヒールでしたが、その後はマスクを脱いでベビーフェースの日本人レスラー、ヒロ・ハセとなり、87年12月27日の両国国技館における凱旋帰国第1戦で小林邦昭をオリジナル必殺技ノーザンライト・スープレックスで撃破してIWGPジュニア・ヘビー級王座を奪取。日本デビュー戦でチャンピオンになるという快挙をやってのけました。
海外修行中にジャパン・プロレスが崩壊したため、長州が復帰した新日本プロレスに帰国した馳は同年代の武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士や佐々木健介と切磋琢磨。特にジャパン・プロレスの同期・健介との馳健コンビは人気を博しました。