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文部科学大臣に就任した馳浩氏のプロレスラー時代(2ページ目)

去る10月7日、内閣改造で馳浩衆院議員が文部科学大臣に就任しました。馳大臣は9年前の2006年8月27日に引退した元プロレスラー。そこで政治家としての資質を感じさせたプロレス時代を解き明かしましょう。

小佐野 景浩

執筆者:小佐野 景浩

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リング外でも才能を発揮

89年7月に参院選に出馬したアントニオ猪木のボディーガード兼秘書を務めたことが政界進出のきっかけとなりましたが、このあたりからリング外でも才能を発揮していきます。

90年からは道場で若手のコーチになり、1期生=天山広吉、西村修、金本浩二、小原道由、2期生=小島聡、3期生=中西学、永田裕志、石澤常光(ケンドー・カシン)大谷晋二郎、高岩竜一を指導。その後も大相撲元小結の安田忠夫(孝乃富士)、藤田和之らを育てました。ちなみに中西、石澤、藤田は『闘魂クラブ』所属の形で新日本に入社しています。

『闘魂クラブ』とはレスリング界から有望な人材をスカウトするために馳が91年に立ち上げたシステムで、午前中は新日本の社員として働くかわりに合宿所と練習場を提供するというもの。中西は92年のバルセロナ五輪出場を果たした上でプロレス・デビューしました。馳は道場を充実させることが新日本プロレスという会社にとっても、プロレス界にとっても重要なことだと考えて新人の教育に情熱を注ぎ、積極的にスカウト活動をしていたのです。

コーチ、スカウトだけでなく92年頃からは現場責任者の長州力の補佐役も務めました。当時、馳はマッチメークに関わっていましたが「あの時代は橋本を軸にマッチメークしていました。強さの象徴として橋本を頂点に置く。それによってスター性のある武藤と蝶野がさらに光るし、健介や私も光ったんです」と言います。プロレスラーは基本的に「俺が、俺が」ですが、馳は新日本のリングがどうあるべきかを考え、自分を含めた選手を客観的に見つめてマッチメークする才能があったのです。


すべて政治、教育につながっているプロレスで培った経験

95年7月の参院選で初当選した後はセミリタイア状態になった馳ですが、翌96年11月に全日本プロレスに移籍。それはジャパン・プロレスの新弟子時代に指導を受けたジャイアント馬場への恩返しと同時に「闘魂三銃士だけでなく三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太(現・建太)の四天王とも闘ってみたい」というプロレスラーとしての純粋な欲でした。そして新日本的な要素を全日本マットに持ち込んだのです。

全日本時代の2000年、馳はプロレスが総合格闘技ブームに押されていることを危惧して闘魂三銃士と全日本の社長に就任する直前の三沢の会談の場をセッティングするなど、プロレス界再編に動いたこともあります。三銃士vs四天王が実現したらプロレス人気を再燃させられると考えたのです。諸々の事情により、この時は実現しませんでしたが、のちに違う形であっても闘魂三銃士と三沢が絡んだカードが生まれたことを考えれば、彼らの間にパイプを作った功績は大きいと言えるでしょう。

2000年5月に参議院議員を辞職して6月に衆院選に当選。文部科学副大臣だった06年8月にプロレスを引退して政治に専念することを決意した時、馳浩はこう言いました。

「常に対戦相手、会場、気温、客の入り具合、チケットを買って来た人が多いのか、配られたチケットで来た人が多いのか、晴れの日なのか、雨の日なのか、雪の日なのか、デーゲームなのか、屋外なのかとか、いろんなことを考えて常にお客さんの期待を裏切らないように、裏切らないと同時に期待を裏切って凄いものを見せようとやってきた。それはやっぱりすべて政治にも教育にもつながっているなあと思います」。
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