鎌倉仏師の技を今に受け継ぐ「鎌倉彫」
皆さんは、神奈川県鎌倉市の伝統工芸品である「鎌倉彫(かまくらぼり)」をご存じでしょうか?現在、NHKの連続テレビ小説『まれ』では「輪島塗」が紹介されていますが、「鎌倉彫」も「輪島塗」と同じく漆(うるし)を木地に塗る「漆器(しっき)」に分類される伝統工芸品です。
『鎌倉彫 博古堂』店内
鎌倉彫の特徴は、その彫刻の美しさにあります。鎌倉彫のお店に行くと、伝統的なものからモダンなものまで、様々な絵柄が彫刻されたお盆やお皿、手鏡などが並んでいます。
左・姉の後藤圭子さん(博古堂当主) 右・妹の尚子さん(鎌倉彫協同組合代表理事)
現在の鎌倉彫で、鎌倉仏師の流れを受け継ぐのが、後藤家と三橋(みつはし)家。今回は、このうち後藤家のお店である『鎌倉彫 博古堂(はっこどう)』を中心に取材させていただき、「鎌倉彫」の様々な魅力をお伝えします。
鎌倉彫はどのように誕生したのか
まずは、『博古堂』当主である後藤圭子さんと、鎌倉彫協同組合代表理事を務める後藤尚子さん姉妹にインタビューさせていただき、鎌倉彫の歴史についてうかがいました。鎌倉彫の起源については、はっきりしない部分もありますが、鎌倉時代に中国から禅宗が伝えられ、鎌倉には、鎌倉五山をはじめとする、多くの禅宗寺院が建てられました。お寺が建てば、仏像を制作する仏師が必要になり、当時、奈良で活動していた仏師たちが鎌倉にやってきます。
屈輪(ぐり)文様が彫られた香合(鎌倉彫資料館 蔵) 「屈輪」は「倶利」と書くことも
仏師というと仏像ばかり彫っているイメージがあるかもしれませんが、実際には、仏像が置かれる「須弥壇(しゅみだん)」や「前机」、お香を入れる「香合(こうごう)」などの仏器・調度品も手がけていました。この時代に建てられたお寺の建物や堂内の調度品は、当時の中国(宋)で流行していた「唐様(からよう)」という様式の影響を受けています。
「唐様」建築の代表例である円覚寺「舎利殿」(国宝)
また、当時、中国からもたらされた物の中に、「彫漆(ちょうしつ)」という、塗り重ねた漆の層で器が形成され、その表面に文様を彫った、大変、手間と時間がかかる工芸品がありました。これを模して、現在の鎌倉彫と同様に、木彫り漆塗りで表現した香合が創られましたが、これが鎌倉彫の始まりと考えられます。
こうしてみると、鎌倉彫とは、日本の仏師の持つ木彫技術や、中国から伝わった「唐様」、漆工芸の技術などが、渾然(こんぜん)一体となって作り出されたもの、ということができます。
その後、仏師たちは、現在の扇ヶ谷の寿福寺の門前に「鎌倉仏所」と呼ばれる仏師の集落を形成し、活動を続けました。ちなみに、鎌倉彫と呼ばれるようになったのは江戸時代からで、それ以前は「鎌倉物」と呼ばれていたようです。
鎌倉彫資料館の所蔵品の中で最も古い作品「屈輪文三足卓(ぐりもんさんそくしょく)」。室町時代の作品
興味深いのは、時代によって好まれる図柄が変遷していくこと。例えば、豊臣秀吉などが活躍した桃山時代には、豪華で量感のある牡丹と動物の王様である獅子を組み合わせた「獅子牡丹」のような絵柄が好まれました。
また、江戸時代になると、茶の湯の一般への普及から、茶道具も数多く作られるようになります。元禄7(1694)年に刊行された茶道具の百科全書である『万宝全書(ばんぽうぜんしょ)』には「鎌倉彫」という名称が記載されています。
しかし、江戸時代も末期になると、幕府の財政が逼迫(ひっぱく)したことからお寺に重税を課しました。そのため、お寺は伽藍(がらん)や仏像の修理もままならず、仏師たちは職を失い廃業・転業する者も多く、最終的に残ったのは、後藤家と三橋家だけになったそうです。
次のページでは、現代の鎌倉彫についてレポートします