8年ぶりにG1に優勝した棚橋弘至
すべての会場が超満員というわけではありませんでしたが、終盤の東京6連戦(後楽園ホール3連戦+両国3連戦)は両国の初日は超満員にとどまったが、それ以外はチケット完売の超満員札止めを記録。改めて新日本プロレスのブーム再燃を証明したのです。
勝ち得たファンの信頼!チャラ男からエースに
最終戦の8月16日、超満員札止め10180人の大観衆の前で優勝を争ったのは棚橋弘至と中邑真輔です。新日本プロレスは90年代末からK-1やPRIDEという他の格闘技人気に押され、低迷期を迎えました。そんな闇の中で一筋の希望の光となったのが、プロレスと総合格闘技を両立できる選手として育てられて”選ばれし神の子”と呼ばれた中邑と、総合格闘技には目もくれず純プロレスに邁進して沈滞気味の新日本に明るさをもたらした”太陽の天才児”棚橋弘至でした。2人が初対決したのは新日本が総合格闘技寄りになるなど迷走中だった05年1・4東京ドーム。プロレスファンが新日本にソッポを向いている状況で2人は未来を見せるために必死に闘ったのです。そして棚橋vs中邑は苦しい時代の新日本の切り札として節目で行われてきました。低迷期を支え、今日の隆盛に導いた棚橋と中邑の優勝決定戦は、ずっと新日本を応援し続けてきたファンにとっては感慨ひとしおだったことでしょう。
そして激闘を制したのは棚橋。棚橋にとっては07年以来、8年ぶりの優勝でした。8年前の初優勝はもちろん嬉しいものでしたが、両国国技館は満員にならず「必ず俺たちの世代でもう一度プロレスを爆発させる」と誓いました。そして「いつも俺は”次世代のエース”と書かれているんですよ。次の世代はいつなのかっていう。今じゃないのか!? もう力づくでも次世代とは言わせない。次世代という表記は禁止です。エースという表記は好きなんで続けてください」とも言っていました。
棚橋は新日本が低迷している時代に最初にアントニオ猪木から続く伝統のストロングスタイルの呪縛から解き放たれた男ですが、当時はまだ自己を確立しておらず、発展途上の段階。「俺はアントニオ猪木にも藤波辰爾にもなれないけど、俺という人間は俺にしかなれませんから」と常にポジティブでカッコイイ自分を演出するようになった棚橋のナルシスト&チャラ男キャラは、昭和のストロングスタイルを愛するファンからはブーイングを浴びました。今や定番の「愛してま~す!」のキメ台詞も当初はブーイングでした。07年のG1初優勝の時は、ファンの反応がブーイングから支持に変わる過渡期でした。
「俺のプロレスに対する覚悟さえ伝われば、このブーイングもいつかは歓声に変わるんじゃないかと祈りながら必死に戦っていましたね」とは当時を振り返る棚橋の言葉。やがて明るいキャラの裏に隠されたプロレスに対する真摯な姿勢と覚悟、新日本プロレス愛がファンの心を動かしました。「疲れない」「落ち込まない」「諦めない」というポジティブな姿勢を貫き通す棚橋の内面の強さにファンは惹かれるようになったのです。
どんな激闘の後でもエアギターをかき鳴らし、引き揚げる際にはファンの差し出すタオルで汗を拭い、ファンとハグし、ファンと会話する棚橋。それはお客さんが入らない苦しい時代を経験し、応援してくれるファンのありがたみを知っているからでしょう。試合後の棚橋を取材する報道陣は「控室に戻ってくるまで5分はかかるなあ」と笑いながら棚橋が戻ってくるのを待つのが常です。取材する誰もが棚橋の姿勢を理解しているからです。
G1優勝決定戦の勝負が決した後、敗れた中邑は棚橋に右手を差し出して握手。「リングの上に全部吐き出した」と一言だけ残して控室に消えました。きっと中邑にも感慨深いものがあったはずです。8年前には若干のブーイングも浴びましたが、今回は「棚橋、サイコー!」の大合唱の中でリングを降りた棚橋は「今の時点でシチュエーション、ファンの皆さん、会場、結果…すべて最高です。でも、さらに満足しないで上を目指します。もっと行けるんです、プロレスは。もっと行けるから、それだけを信じます」と力強く宣言しました。
そう、プロレスはもっと上に行ける。皆さんもこの素晴らしいスポーツ・エンターテインメントを会場のライブで体感してみてください。