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神奈川最古の商家、薬とお菓子の「ういろう」家とは?

皆さんは「ういろう」と聞いて、何を思い浮かべますか? 多くの人は、名古屋名物のお菓子「ういろう」を思い浮かべるかもしれません。しかし、じつは神奈川県小田原市に本家本元の「ういろう」があるのです。今回は、現在の外郎(ういろう)家当主、外郎藤右衛門定武さんの話を中心に、本家「ういろう」をご紹介したいと思います。

森川 天喜

執筆者:森川 天喜

国内旅行ガイド

「ういろう」の本家本元

皆さんは「ういろう」と聞いて、何を思い浮かべますか? 多くの人は、名古屋名物のお菓子「ういろう」を思い浮かべるかもしれません。

しかし、じつは神奈川県南西部に位置する小田原市に本家本元の「ういろう」があるのです。小田原の外郎(ういろう)家は、室町時代から続く、神奈川県下で最古の商家で、今も薬とお菓子の製造・販売を行っています。
現在の外郎家当主、外郎藤右衛門定武さん。2017年11月に行われた「25代 外郎藤右衛門襲名記念式典」にて

現在の外郎家当主、外郎藤右衛門定武さん。2017年11月に行われた「25代 外郎藤右衛門襲名記念式典」にて


今回は、現在の外郎家当主で、2017年11月に、歴代当主が受け継いできた「藤右衛門」を襲名された、外郎藤右衛門定武さんに外郎家の歴史などについてお話をうかがいました。
 

「ういろう」のお店へ行ってみましょう

小田原駅から小田原城のお堀端を歩いて行くと、国道一号線(旧東海道)に突き当たります。これを箱根方面に右折し、少し歩くと、道路の右側にお城のような建物が見えてきます。
 
八棟造りの「ういろう」本店。日本遺産「箱根八里」の中で、「かまぼこ通り」、「小田原城」、「ういろう」の3つが小田原宿の構成遺産として認定されました

八棟造りの「ういろう」本店。日本遺産「箱根八里」の中で、「かまぼこ通り」、「小田原城」、「ういろう」の3つが小田原宿の構成遺産として認定されました


小田原城と間違う人もいるのではないかと思うこの八棟(やつむね)造りの建物が、「ういろう」の本店。店内に入ると、名物のお菓子「ういろう」をはじめ、様々なお菓子が販売されています。

また、店内右手は喫茶スペース、左手奥の一画は薬局になっており、薬が販売されています。
 
小田原市の「ういろう」本店

小田原市の「ういろう」本店


このお城のようなお店といい、お菓子と薬が同じお店の中で売られていることといい、不思議なことだらけです。その秘密は、どうやら外郎家の歴史と関係があるようです。
 

外郎家の歴史 薬のういろう お菓子のういろう

外郎家は、もともと中国の元王朝(1271年~1368年)に仕えた公家の家系だったそうです。

元朝は、1368年に明朝に滅ぼされますが、このとき、日本における外郎家の初代となった陳延祐(ちんえんゆう)は、命からがら日本に亡命。九州の博多に渡ってきました。博多の妙楽寺には「ういろう伝来之地」の石碑があります。

陳一族は、延祐が、中国で「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」という役職についていたため、その官職名の一部をとり、後に、日本では「外郎」姓を名乗るようになりました。

延祐は、製薬や医術に関する中国伝来の知識・技術を持っていたので、京都の将軍・足利義満(よしみつ)に招かれましたが、九州を離れようとはしませんでした。延祐の死後、二代目の大年宗奇(たいねんそうき)が京都に上り、将軍に仕えました。

この宗奇が処方する薬は、大変な効き目があったため、朝廷や幕府の人々に重用され、時の天皇から「透頂香(とうちんこう)」という名前を授かりました。これは、当時の人々が烏帽子(えぼし)の中にこの薬を携帯していたところ、夏の暑い日に頭の熱で薬が溶け出し、良い香を放っていたことに由来します。
 
室町時代から続く米粉の蒸し菓子「ういろう」。羊羹(ようかん)に似ているが弾力があり、甘すぎない上品な味わいが特徴

室町時代から続く米粉の蒸し菓子「ういろう」。羊羹(ようかん)に似ているが弾力があり、甘すぎない上品な味わいが特徴


ちなみに、お菓子の「ういろう」を生み出したのも、この二代目の宗奇です。将軍に信頼された宗奇は、外国使節の接待なども担当しており、その接待に用いたのが、今に伝わるお菓子の「ういろう」です。

お菓子の「ういろう」は、今は様々な味がありますが、もともとはサトウキビを原料とする黒糖で味付けされたものがオリジナル。サトウキビは、貴族の栄養剤として琉球(現在の沖縄)から輸入されていたものを使いました。つまり、薬屋だからこそできたお菓子というわけで、薬のういろうとお菓子のういろうは、切っても切り離せない関係にあるのです。
 

なぜ、小田原にやってきたのか

外郎家は、京都で幕府の傍らに邸宅を与えられ、典医の職にも任用されるほど重用されていました。

ところが、永正元(1504)年、五代目の定治は、京都の家や典医の職を弟に託し、当時関東で台頭し、小田原も支配下においた北条早雲の招きに応じて、小田原に移住します。
 
小田原駅西口に立つ北条早雲像

小田原駅西口に立つ北条早雲像


なぜ、京都での地位と名誉があるにもかかわらず、わざわざ関東にやってきたのでしょうか?

その主な原因は、やはり、1467年から約10年にわたる戦乱で京都の街を焼き尽くした「応仁の乱」。洛中が荒廃し、神聖な薬をつくる環境にはほど遠く、また、どちらかの家が滅びても家が残るように家を二分する決断をしたとのことです。

結局、京都の外郎家はその後、途絶えてしまい、小田原の外郎家は今日まで残っているのですから、この時の判断は正しかったと言えますね。
 

早雲が外郎家を小田原に招いた理由

一方、早雲が、なぜ外郎家を小田原に招いたのか、その理由についても考えてみましょう。

ここで少し、小田原と小田原城の歴史について触れると、小田原城は、元々武将・大森氏が支配する城でしたが、北条早雲が大森氏から城を奪取し、以後、天正18(1590)年に豊臣秀吉に滅ぼされるまでの約100年間(1496年頃~1590年)、北条氏の歴代の当主が城と城下町を整備・拡張しました。

ここで重要なのは、城下町を発展させるためには、何が重要かということです。

これは、昔も今も変わらないことだと思いますが、人々が集まる条件の第一は、やはり、その土地に安心して住めるということ。
 
海に面し、早川など水利にも恵まれた小田原

海に面し、早川など水利にも恵まれた小田原


小田原は、水や食料に恵まれ、また、防衛の面でも問題なく、あと必要だったのは健康面での適切な医療でした。そこで、早雲が目を付けたのが京都で活躍し、しかも将軍家とのつながりも強かった外郎家だったのです。

こうして、早雲の招きによって関東にやってきた外郎家は、製薬や医術はもとより、軍事顧問的な役割、さらには、薬を各地に持っていく中で、その土地の情報を集める諜報・外交官的な役割も担ったそうです。

その後、北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、その豊臣家も徳川家康に滅ぼされ、支配者は時代とともに変わっていきますが、外郎家は今に続いています。

ちなみに、「ういろう」のお店が八棟造りなのは、京都から小田原にやってきた当初からのもの。しかも、この最初の八棟造りを建てたときに、時の天皇がわざわざ勅使を派遣し、綸旨(りんし)を賜りました。そのため、もし建物が地震などで倒壊した場合は、また八棟造りで立て直すというのが、外郎家の家訓になったのだそうです。
 

江戸時代の「ういろう」

今でこそ、薬のういろうよりも、お菓子のういろうのほうが有名かもしれませんが、江戸時代、東海道五十三次の主要な宿場であった小田原の名物として天下に名を知られていたのは、名薬「透頂香」でした。

あるとき、歌舞伎俳優の二代目市川團十郎(だんじゅうろう)が持病で声が出なくなり、役者人生をあきらめかけていました。

ところが、「ういろう」の薬のことをきき、これを服用してみると病がすっかり治り、そのお礼にと演じたのが歌舞伎十八番の「外郎売」なのだそうです。

また、江戸時代の名所絵図を見ると、小田原のページに挿絵として描かれているのは、小田原城ではなく「ういろう」のお店。当時、いかに「ういろう」が有名だったのかを物語ります。
 

現代の「ういろう」

以上、見てきた通り、外郎家は室町時代から650年、小田原で500年以上にわたる歴史をもつ商家ですが、この間、秀吉の小田原攻めや太平洋戦争など、様々な存続の危機を乗り越えてきました。その危機を乗り越えてこられたのは、ひとえに小田原の人々の助けがあったからこそ、と外郎さんは話されます。

現代の外郎家当主として今後なすべきことは、地元・小田原への時を超えた恩返しとのことですが、小田原はやはり観光の街ですので、観光の振興は欠かせません。
 
蔵を改装した「外郎博物館」

蔵を改装した「外郎博物館」


観光の街として回遊性のある見所を整備したいとの思いから、「ういろう」の店舗の奥にある蔵を改装して、外郎家に伝わる様々な所蔵品を公開しているのが、「外郎博物館」(入館無料)。

店頭で博物館を見学したいと声をかけると、社員の方が案内してくださいます。運がいいと当主自らが案内してくださることも。小田原にお越しの際は、ぜひ、立ち寄ってみてください。

また、外郎さんは京都など、他の地域との文化交流も進めておられます。

7月に京都で行われる祇園祭の山鉾のひとつ「蟷螂(とうろうやま)山」は、先述した、外郎家の祖先である大年宗奇が創始したと伝えられています。
 
「ういろう」社員とともに祇園祭の山鉾巡行に参加される外郎さん。2016年祇園祭にて

「ういろう」社員とともに祇園祭の山鉾巡行に参加される外郎さん。2016年祇園祭にて


外郎家が小田原に移った後、京都との縁は途絶えていましたが、外郎さんは最近になって蟷螂山と外郎家とのかつての縁を知り、2011年から、じつに500年ぶりに外郎家として祇園祭に参加されるなど、積極的に交流を深めておられます。

500年の時を経て、カマキリがつないだ京都と小田原の縁
 

最後に、気になる質問

最後に、気になる質問をしてみました。ほかの土地で作られている「ういろう」と小田原の「ういろう」は関係あるのでしょうか?

「薬のういろうは材料に限りがあり、製法も一子相伝で伝えていますので、小田原の外郎家にしか伝わっていません。

しかし、お菓子のういろうは、それほど作り方が難しくないので、模倣したり、京都在住の時代に、出入りの菓子職人などが地方に戻り、江戸時代に似たお菓子をつくるようになったようです。

当家は手作りが基本で小田原でのみ販売。もっちりとした食感と、ほのかな甘さを大切にしています。」

ほかの土地で作られている「ういろう」と小田原の「ういろう」は、直接は関係ないようですね。食べ比べたことはありませんが、小田原のういろうが美味しいのは確かです!

<DATA>
■ういろう本店
住所:小田原市本町1-13-17
TEL:0465-24-0560
ホームページ
ういろう
外郎博物館
ういろう別館 中国料理 杏林亭

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