16世紀フィレンツェで活躍した天才芸術家 ミケランジェロの彫刻作品
ミケランジェロの代表作ダヴィデ像 リアルな骨格や筋肉、浮き上がる血管は必見です
現在のトスカーナ州アレッツォ近郊、当時のフィレンツェ共和国に生まれたミケランジェロは、13歳のときに画家に弟子入りし芸術家への道を目指します。若きミケランジェロの才能を見出したのが、フィレンツェを支配していた権力者、メディチ家のロレンツォでした。メディチ邸へ引き取られた14歳のミケランジェロは、ロレンツォの息子たちと同じ教育を受け、メディチ家の莫大な財産による支援を受けその才能を開花させました。ミケランジェロの絵画の多くはローマにありますが、ミケランジェロにとって本業であった彫刻作品の数多くは、故郷フィレンツェに残されています。
メディチ家の支援を受け「天才少年」とまで呼ばれたミケランジェロですが、時代の波に翻弄され、彫刻をほりつつも各地を転々とした晩年は苦悩に満ちたものでした。ツアーに参加すれば、ガイドさんの解説付きで傑作と呼ばれる彫刻作品をより深く味わうことができるでしょう。また見逃してしまいがちな多くの未完の作品も、ミケランジェロの生きた証が大理石に刻まれており必見です。
ヴァチカン、フィレンツェに残るミケランジェロの彫刻作品
10代から才能を開花させた芸術家ミケランジェロ。彼の彫刻作品は、そのほとんどが生まれ故郷であるフィレンツェに残されています。天才芸術家と呼ばれ華やかなルネサンス期を生きたミケランジェロですが、その人生は時代に翻弄された壮絶なものでした。残された彫刻に刻まれたミケランジェロの苦悩と、そのエピソードをご紹介します。
■若きミケランジェロの最高傑作 サン・ピエトロのピエタ
サン・ピエトロのピエタ 柔らかな表情と身体の動きは大理石であることを忘れさせます
パトロンであったロレンツォが死去し、ミケランジェロはフィレンツェを離れ21歳のときにローマへ移り住みます。23歳で制作したのが、現在はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂で見られるピエタ像です。完成後、あまりの美しさに絶賛されるものの、まだ無名であったため自分の名前が認識されないことに腹を立てたミケランジェロは、夜中にこっそり教会に忍び込み、マリアの帯に「フィレンツェの人ミケランジェロ」と署名を刻んだと伝えられています。
■共和制フィレンツェの象徴 英雄ダヴィデ像
75歳頃の作品ドゥオーモのピエタ フィレンツェ大聖堂付属美術館に収蔵されています
26歳のミケランジェロは再び故郷へ戻フィレンツェへ戻ります。かつての支配者メディチ家はフィレンツェから追放され、市民たちによる自由な共和制が誕生していました。この新たな共和国より制作を依頼されたのが、旧約聖書に登場するダヴィデ像です。巨人ゴリアテに戦いを挑む青年ダヴィデが、支配者メディチ家に立ち向かい勝利を収めた共和制フィレンツェの象徴とされたのでした。ミケランジェロはかつての恩人メディチ家への恩義と、市民への思いに板挟みとなりながらも、反メディチ家の象徴となる像を完成させました。ミケランジェロの代表作となったダヴィデ像は、現在はフィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されています。
■権力に屈し制作を命じられたサン・ロレンツォ教会 メディチ家礼拝堂の廟墓
メディチ家礼拝堂のあるサンロレンツォ聖堂 ミケランジェロ設計の未完のファサード
30代をローマで過ごしたミケランジェロが、再びフィレンツェに戻ったのは42歳のとき、かつての共和制は崩壊し再びメディチ家が支配していた時代でした。ところが市民たちによる反乱が勃発、ミケランジェロも革命軍として戦うものの、メディチ家の強大な軍により革命軍はあえなく滅び次々と処刑が始まります。逃亡していたミケランジェロは「メディチ家礼拝堂の廟墓を建設するなら命は奪わぬ」というメディチ家の言葉で投降し、仲間を見捨て再び権力者に屈することになったのでした。フィレンツェに残るメディチ家礼拝堂には、ミケランジェロ美術館といってもよいほど彼の作品が多数残されています。ミケランジェロは59歳でフィレンツェを去り、二度と戻ることはありませんでした。