一歩手前で引き返した男
お笑い好きな方なら、ここまでヒントが出ればお分かりかと思います。はい。千原ジュニアその人です。2001年のバイク事故から奇跡的な復活を遂げたジュニアは、いまやバラエティーに欠かせない人気者ですが、事故以前の千原兄弟は“ポストダウンタウン”の呼び声高いトンガリまくったコンビでした。デビュー当時は「ジャックナイフ」と恐れられたジュニアは、周囲にこびることのない笑いの世界を求めて切り拓こうとしてきました。ところが最近では打って変わって「バターナイフ」と呼ばれています。というのは、本人および周辺の持ちネタですが、生死の境をさまよったことが直接的な原因ではなかったとしても、今までの笑いへの取り組み方を見つめ直す機会になったのでしょう。
退院後に出演した「さんまのまんま」で、「快気祝いに何がほしい」と聞かれたジュニアは「レギュラーください」と言ってのけ、その後、新番組「おかしや?さんま!」への参加が決まったそうです。ジュニア自身はボケたつもりだったのにと、後で釈明してます。しかし当ガイドとしては、あれが高らかな転向宣言だったように感じられてなりませんでした。
お笑い芸人にとってはホラー現象
話が脱線してしまったので、恐縮しつつ本作の最大局面にテーマを進めていきます。多くの読者に感動を届けた『火花』ですが、終盤近くに描かれる神谷の変貌ぶりは、大部分の読者を困惑させたのではないでしょうか。しかしどのような形であれ「笑い」を仕事にしている人にとって、あのシークエンスはホラー以外の何者でもなかった筈です。あの変貌が示しているのは「自信を持って面白いと提供したネタが、他の人にまったく受けない」という、考えうる中でも最悪のケースですから。
果たして文芸評論家の方々には、こうした恐怖が伝わるのだろうかと、ついいらぬ心配をしてしまいます。逆に言えば、文学にそれほど詳しくなくても、お笑いが大好きであれば、自分なりに深く読み込むことができる作品だとも思います。
すでに大ベストセラーとなっている『火花』ですが、お笑いは好きだけど文学に縁がないと敬遠されている方がいらっしゃったら、そういうあなたにこそ相応しい小説なんだと、ぜひとも大推薦させてください。