“英語を駆使して世界を飛び回りたい”
という夢に導かれ、英語劇の扉をたたく
『ファンタスティックス』でデビュー当時の別所さん。写真提供:別所哲也
「俳優という仕事を面白そうだなと思い始めたのは大学3年の時なので、20歳になった頃でしょうか。それまでは思ってもみませんでした」
――別所さんは慶應義塾大学英語會(K.E.S.S.)のドラマ・セクションにいらっしゃったのですよね。ということは、もともと演劇にご興味がおありだったのでは?
「当初はディベートのセクションで、スピーチの原稿を創ったり、討論の技術的なことを覚えながら“尊厳死とは何か”“死刑廃止について是か非か”といった討論をやっていたのですが、それよりも、ドラマは感性で心が動くから、こちらの方が面白そうだし、高校まで体育会をやっていたので全く運動をやめるのはいやだけど、ドラマのセクションだとジャージを着て外でジョギングをしたり発声練習をしたりしていて、運動もできると思って(笑)ドラマに行ったんです。
ただ、それはあくまで、英語を勉強するための手段でした。小さいころから、英語を駆使して世界中を飛び回る仕事がしたいと思っていて、そのために英語を身につけたかったんです。でも、サークルにいるうちに、演劇で人が笑ったり泣いたり、『カッコーの巣の上で』『エクウス』という戯曲を読んでいくうちに、その面白さに気づいてしまったんですよ。それで劇団青い鳥のような小劇場系の劇団とか、新劇や劇団四季、パルコのプロデュースものの舞台も観に行くようになりました」
――でも劇団の養成所などは受験されなかったのですね。
「一時は考えました。モデルのスカウトをされたりはしていましたが、あくまで演劇をやりたいと思っていたので、円や四季、青年座を受けようかなと思ってました。文学座、無名塾にも大学の先輩が何人か行っていましたし。
ひょんなことからミュージカルで舞台デビュー
『ファンタスティックス』カーテンコール 写真提供:別所哲也
そこからリハーサルの、地獄の6か月が始まりました(笑)。それまで英語で劇をやっていたので、日本語で歌うのは気恥ずかしかったし、プロの世界は見よう見まねでやっていた学生演劇とは違うので、体の芯が立ってないとか声の出し方が違うとか、諸先輩方にさんざん怒られました。
『ファンタスティックス』は伴奏はピアノとハープだけで、マイクもつけずに肉声でやるミュージカルなんです。ピアノはやっていたので楽譜は読めましたが、それを声に変換するということは全く初めて。ピアニシモからフォルテまで、紀伊國屋ホールの客席に届くよう、きちんと歌いわけるのはとても大変でした。演出は中村哮夫先生といって、『ラ・マンチャの男』などを手掛けてこられた大先生なのですが、僕はそんなことも知らなくて。4年生になったら偶然、大学で中村先生の映画演劇論が開講することになって、後付けで先生のことが分りました(笑)」
――その後、『クライシス2050』(1990年)でハリウッド・デビューし、テレビドラマでも引っ張りだことなって、しばらく別所さんといえば“映像の方”でしたが、舞台への思いは持続していたのでしょうか?
「当時は記憶が飛んでいるくらい連ドラと映画が交錯して、取材も15分刻みという状態でした。見るものやるものすべて新しい経験だったので楽しかったし嬉しかったけれど、演劇は好きだったので、『レ・ミゼラブル』の初演とか蜷川幸雄さんの新作舞台の話を聞くと、すごく気になっていました。ただ、映像の仕事が入り始めると、何年も先までスケジュールが埋まってしまって、舞台のオファーをいただいても入れられないという状況だったと思います」
*次頁では舞台に復帰された経緯から、愛着の強い『レ・ミゼラブル』『ナイン』、そしていつか機会があればやってみたいお気に入りミュージカルについて、お話いただきました!