飾人 ミリアム・ハスケル

18世紀も終わりの1899年7月2日、アメリカのインディアナ州キャネルトンでミリアム・ハスケルは生まれました。両親はそれぞれロシアや東欧からの移住者で共にユダヤ系アメリカ人です。

ミリアム・ハスケルundefined肖像画

飾人 ミリアム・ハスケル
 

ハイスクールを卒業するまで父が経営していた洋装店を手伝っていたことが、後に彼女が仕事をする上での良い経験になっていたかもしれません。

シカゴの大学で教育学を学びましたが、熱心ではなかったようです。そして父から借りたのであろう500ドルを元にニューヨークに出て、当時ヘラルドスクウェアにあったマックアルピンホテルの中に、コスチュームジュエリーを扱うブティック(ギフトショップだったという説もありますが)をオープンしたのです。

男性優位のビジネス社会に於いて女性が独立して仕事をするのはまだ少なかった時代。自分の意志で生きていこうとする自由な精神の持ち主で、勿論野心もあったと思います。

ショップは場所もよく大変繁盛しました。ミリアムは長いこと自分の心に溜め込んでいたビジネスセンスを開花させたのです。

「気品のある優雅な女性は、服とジュエリーを出来事に合わせて付け替えるもの」というコンセプトの元、このブティックの女主人は、優しく美しい言葉使いと洗練された身のこなしでリッチなレディ達の心をつかみ、瞬く間に2号店をオープンさせます。

そしてチーフデザイナーにフランク・ヘスを迎え、いよいよコスチュームジュエラーとして乗り出します。


アンサインでの試み


アンサイン

飾人 ミリアム・ハスケル


けれども職人気質だった彼女は自分の名前を売ろうとはせず、商品にサインを入れる事をしませんでした。20年も経った1940年代の後期になって初めてトレードマークがジュエリーの裏座に付けられるようになったのです。

不況の中でもミリアム・ハスケルカンパニーは発展し5番街に移り、他にもジュエリーブティックを出し、サックスフィフスアベニュー店は大変な評判だったそうです。
ビジネスはヨーロッパまで広がり、アメリカンコスチュームジュエリー界のクイーンとなり、彼女の絶頂期でした。

発展を続けるカンパニーを維持するにあたり、フランクはパーツ等の買い付けの為何度もヨーロッパへ旅をし、ハスケルも度々出掛けています。

恋多き人生の果てに

ミリアム・ハスケルundefined肖像画

飾人 ミリアム・ハスケル

ポートレートを見る限り、ミリアム・ハスケルは絶世の美人ではありません。黒い瞳に茶色の髪で知的な顔立ちをした、どちらかと言えば学術方面の仕事をしそうなタイプに思えますが、この間彼女はいくつも恋をしています。 

石油王ロックフェラー家で政治家のネルソン・ロックフェラー、世界最大のデパート王バーナード・ギンブル、中でもハーツレンタカーの御曹司ジョン・D・ハーツとの恋愛で心に大きな痛手を負います。
このことが糸口だったのでしょうか。ミリアムの心は少しずつ病んでいったのです。 

フランクが一年間陸軍に召集された翌年、第二次大戦が始まり、ヨーロッパや日本からのジュエリーパーツは入手困難に陥りますが、ハスケルジュエリーはアイデアとデザイン性で見事にピンチを乗り切ります。この頃からミリアムは頻繁に鬱を発症するようになり衰えていきます。      

ナチスドイツのユダヤ人虐待も、病んでいた彼女の心に追い打ちをかけたのでしょうか。                                             
会社の繁栄の中で、ついに入院を余儀なくされます。 そして病は徐々に悪化していきました。
カンパニーは弟ジョー・ハスケルの手に渡り、運営はフランクに委ねられ、その5年後に有能なモリス・キンツレーが経営者になった時もフランクはモリスと共にカンパニーを支えました。                

そしてフランクの推薦で1958年、ロバート・F・クラークがデザイナーとして入社、フランクのリタイヤ後副社長となります。
1960年にフランクは退社し、僅かな期間ミリアムワールドの余韻に浸るかのように、独自のブランド「アモーレリ」を立ち上げます。

ミリアムは既に仕事を出来る状態にはなかったでしょう。1981年7月14日ハミルトンのナーシングホームでミリアム・ハスケルは長い保養生活の後亡くなりました。82歳の人生でした。アメリカンドリームを体現した女性でした。

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