競馬ファンの心に刻まれた「砂の鬼」たち
JRAのレースは、芝コースと砂主体のダートコースの2つで行なわれます。といっても、どちらかというとメインになるのは芝コース。JRAで行なわれるG1レースのほとんどは芝コースであり、また、JRAでダートのG1レースが初めて生まれたのも、1997年のこと。ダートレース自体は古くからありながら、本当の意味で地位が上がってきたのはこの頃からなのです。しかし、そんな中でも芝レースのスターと同様に、あるいはそれ以上にファンの心をとらえた「砂の王者」はたくさん存在します。1頭1頭くまなく紹介したいところですが、それだとウンザリするくらい長い記事になってしまうので、今回は独断と偏見で、2000年代のダート王を2頭選ばせていただきました。「あの馬が入っていないじゃないか!」という意見は、ご勘弁ください。
砂の上で見せた、想像を超える”真の能力”
クロフネ
競馬において「史上最強の馬」を考えるのは、とても難しいもの。時代の違う馬たちを比較しても、どちらが強いか想像がつきにくいからです。ですから、たとえば「芝コースにおける最強馬」を聞かれたら、私は「分かりません」と回答します。しかし、「日本ダート史上、最強の馬は?」と聞かれたら、私は「クロフネ」と即答するでしょう。クロフネという馬は、それほど圧倒的な強さをダートで見せたのでした。念のためですが、「クロフネ」とは競走馬の名前です。
ほぼ白に近いグレーの馬体で「クロフネ」。名前の由来が気になるところですが、その話は長くなるのでここでは置いておきましょう。高い期待を持って2000年にデビューしたクロフネは、“芝のレース”で快進撃を続けていきます。デビュー翌年、2001年の春には芝のG1であるNHKマイルC(芝1600m/東京競馬場)を勝つほどの強さでした。
お気づきでしょうが、まだこの時点でクロフネはダートのレースを走っていません。ずっと芝。むしろこの時、クロフネとダートを結びつける人は皆無だったはずです。
2001年の秋、クロフネは当然のごとく芝のビッグレースを目指します。が、同馬はアメリカで生産された「外国産馬」。当時は日本で生まれた内国産馬を優遇するため、外国産馬がビッグレースに出られる枠は制限されていました。クロフネはこの時、G1天皇賞・秋(芝2000m/東京競馬場)への出走を目指していましたが、こういった理由から、直前で出走できなくなってしまいます。
クロフネにとってはアクシデントともいえる出来事。しかし運命とは面白いもので、この出来事が、「ダート王」への扉を開きます。天皇賞・秋に出られなくなったクロフネの陣営は、同時期に行なわれるダートのG3武蔵野S(ダート1600m/東京競馬場)への出走に踏み切ったのです。
はっきり言って、この判断は賛否両論。「芝のG1を勝っているのに、なぜそんなチャレンジをするんだ」と怒る人もいました。もしダートで惨敗すれば、戦績にも傷がついてしまいます。ただ一方で、陣営は「いつかクロフネのダート能力を見たかった」とも言っています。「もしかしたら、この馬はダートも強いのではないか?」と考えていたのでした。
そしてその予見は、的中したと言えます。いや、おそらくそれ以上でしょう。クロフネは、砂の上で恐るべき能力を見せたのです。
武蔵野Sのレース映像(クロフネはピンク帽の15番)
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期待と不安の入り混じる中、最終コーナーで悠々先頭に立ったクロフネ。彼はまったく次元の違う走りで、どんどんリードを広げていくのでした。私は今後、死ぬまでこの衝撃を忘れないでしょう。あのとき競馬場は、明らかに静まり返りました。言葉を探しても出てこないような、何か異様なものを見てしまったような雰囲気だったのです。
勝ちタイムの1分33秒3も、とんでもない時計でした。普通、乾いたダートは芝より3秒近くタイムが遅くなるもの(ダートは雨が降った方が、砂が固まってタイムが早くなる)。しかし、晴天の中でクロフネが叩き出したダート1600mのタイムは、芝1600mのタイムと言われても不思議ではないレベルだったのです。実際、クロフネが過去に勝った芝のG1、NHKマイルCの走破タイムは1分33秒0。その時とほとんど変わりません。もう物理的におかしいのです。当然ながらクロフネのタイムは、ダート1600mにおける日本レコードでした。
このレースを見て、クロフネ陣営はダート路線に矛先を変えます。次走は、G1ジャパンカップダート(ダート2100m/東京競馬場)。一気の頂点取りを狙ったクロフネは、ここでも圧巻のパフォーマンスを見せたのでした。
ジャパンカップダートのレース映像(クロフネは黄帽の9番)
※ リンク先「ジャパンカップダート」のHIGHかLOWボタンを押すと再生されます
ダートの猛者を相手に、またも次元の違う競馬。このレースには、ダートの本場アメリカの実力馬リドパレスも参戦しており、世界の競馬ファンも注目していました。その中で見せたこの走りは、日本はもとより世界中に衝撃をもたらしたのです。
コンビを組む武豊騎手は「次は向こう(海外)でトップに立ちたい」と言いました。おそらく誰もが「この馬なら、海外のダートレースでも通用する」と思ったでしょう。しかし、クロフネにとってはジャパンカップダートが生涯最後のレースに。屈腱炎(くっけんえん)というケガにより、引退へと追い込まれたのでした。今思い出しても、本当に残念。
クロフネが引退してしばらくは、「もう一度あんな馬が出てこないか」と、そればかり考えていましたね。クロフネの仔でフラムドパシオンという馬が、まさに父のような走りを一瞬見せたのですが、同馬もケガに泣き大成できませんでした。
今でも「クロフネの再来」を待ち望む日々。ダートに挑んだのはたった2戦ながら、クロフネはそれほどの力を見せたのです。