キャリアの脱線とは

ザックジャパンの通訳として活躍した矢野大輔さん

ザックジャパンの通訳として活躍した矢野大輔さん

ガイドは、本来若者のキャリアデザインとは、「事前に計画した1本のレールを進むだけではなく、時々脱線しながら新たな道を模索していくべきものだ」と考えている。そんな「キャリアの脱線」を前向きに活かしていくことで、最終的には天職との出会いや夢の実現につながることが多いからだ。お手本にしたい「脱線者」、今回インタビューするのはザックジャパンの通訳として活躍した矢野大輔氏だ。ザックジャパンでの4年間を書き綴った著書『通訳日記』(文藝春秋)が話題の矢野さんだが、いかにしてW杯のピッチに立つという夢を叶えたのだろうか。


中学の時にイタリアでプロサッカー選手になると決めた

矢野さんにはまず、現在までの道のりを山あり谷ありの折れ線グラフにしてもらった(下図参照)。そのキャリアを見ていくと、矢野さんは中学の時にプロサッカー選手を目指してイタリアに留学している。ここで一つ目の脱線がある。そして、22歳でプロになることを諦め現地のマネジメント会社へ就職。二つ目の脱線だ。この会社では通訳としての業務のほか日伊の商談を数多くこなしている。そしてザッケローニ監督との出会い。これら脱線がどう「W杯」へとつながって行ったのか。まずは渡伊の決断から話を聞いた。

15歳と22歳の時に大きな脱線を経験している矢野さんのキャリアラインシート

15歳と22歳の時に大きな脱線を経験している矢野さんのキャリアラインシート


小寺:普通、中学生が日本代表を目指すとしたら、サッカーの強い高校へ行って選手権で結果を出して、プロからスカウトされて日本代表を目指すと思うんですけど、どうして矢野さんはあえて中学でイタリアに行こうと思ったのですか?

矢野中学の頃テレビで見たイタリアのセリアAの映像で衝撃を受けてしまって、自分は15歳でイタリアに行ってプロになってセリアAでプレーして、日本代表になってワールド杯に出る!という夢を持ったんです。

小寺:高校とか大学に行っておいた方がいいんじゃないかとか思わなかったですか?

矢野思わなかったですね。15歳でイタリアに行ってある程度頑張ればプロになれると思っていました。今から思うとちょっと考えは甘かったですけど(笑)

何の保証もないにも関わらず世界最高レベルのイタリアに渡ってプロを目指すという選択を中学生で決断した矢野さん。その事実だけを見ると無謀で非現実的な道を進んだ印象をうけるかも知れない。しかし、後から実は非常に現実的な判断をする人だということがわかってくる。そんな一面は次のエピソードからも垣間見られるだろう。

矢野これだ、と思ってイタリアには行くんですが、実はとても用心深いんですよ。飛行機の中で覚えた単語が「Ciao(こんにちは)」、「Grazie(ありがとう)」それから「Mi sento male」。この言葉はイタリア語で「体調が悪い」という意味。サッカーでもし何か言われたらこれで言い訳しようと考えていました(笑)。


22歳でプロになることを諦め、現地の企業に就職する

イタリアでサッカー漬けの日々を過ごしていた矢野青年であったが、22歳の時に転機が訪れる。2002年の日韓ワールド杯に出場するために来日するイタリア代表のデルピエーロ選手に同行する家族の日本での通訳兼コーディネーターを任されたことがきっかけで、現地のマネジメント会社で働くことになる。夢であったプロサッカー選手の夢を諦めて就職するという「脱線」を経験するのだ

小寺:プロサッカー選手になる夢を諦めようと思った決め手は?

矢野: 20歳を過ぎてやはり最低限のお金も必要でしたし、イタリアの同僚がプロになったり、日本の同級生が就職したりしているのを聞いて「このままじゃだめだ」って思うようになりました。たまたま縁があって現地のマネジメント会社から声をかけてもらえたので、就職することにしました。

小寺:その会社では実際にどんな仕事をされていたんですか?

矢野:日本企業がイタリアの企業と商談しに来た際のコーディネートや通訳業務です。選手のマネージャーとしてサッカーには携わっていましたが、当然真剣勝負の場であるピッチには立てない。だから大黒(将志)選手が2006年トリノに移籍した際に通訳を担当させてもらって、初めてチームの一員として試合前にロッカールームに入った時は感激しました。

小寺:ということはその時に「サッカーチームの通訳」としてやっていこうと決められたんですね。

矢野:そうです。選手ではありませんが、チームにとって大変重要な役割だと感じました。

夢を抱いてイタリアに渡ったにも関わらず22歳でその夢を諦める決断をしたかのように見える。しかし実際にはある意味夢に近づく決断をしたとも言える。なぜならば、当時トリノを率いていた監督は、その後日本代表の監督として日本をブラジルワールド杯出場に導くザッケローニ氏であったからだ。この運命的な出会いも、「サッカー選手→通訳」という「脱線」がなければ得られなかったかもしれない。