臭うのに、臭わない?
私たちは五感によって、環境に適応するための情報を集めています。五感とは、 視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚です。眼・耳・舌・鼻・皮膚神経などの感覚器は、脳にそれぞれを司る感覚野があり、感覚器と脳の感覚野がセットになって働いています。まず感覚器が外部情報を得て、それを脳の感覚野で処理して生きるために使える情報にする仕組みです。
つまり、眼・耳・舌・鼻・皮膚神経などの感覚器は、いわゆるセンサーであり、単に感覚器が情報を受け取るだけでは、その情報に何の意味もありません。そのセンサーである感覚器からの情報を脳のそれぞれの感覚野が意味情報に情報転換して、それをまた様々な脳の部分で総合判断することで、見えたり、聞こえたり、味を感じたり、ニオイを感じたり、皮膚感覚を得たりするわけです。
例えば、先天性の眼の障害を持った方が、最新の医療で感覚器である眼の機能障害を改善できても、脳の視覚野が訓練を経て正常に働かないと、眼の機能は正常なのに、視覚野がうまく働かないために、結果的には見えないということが起こります。
ニオイを感じる嗅覚も全く同じで、この鼻と脳の嗅覚野のセットが揃わないと“臭うのに、臭わない”ということになります。他の感覚器にもすべて同じことがいえます。しかし、嗅覚には少し異なった事情もあります。
洗練された五感を育てる
嗅覚について触れる前に、もう少し五感について知っておきましょう。世の中にはそれぞれの五感が鋭い人もいれば、そうでない人もいますが、その差はどこから来るのでしょうか?持って生まれたそれぞれの感覚器の性能の差というのも確かにあります。しかし、特別な状況でない限り、この性能の差というのはあまり問題ではありません。むしろ感覚器から入力された情報を処理するコンピューターである脳の性能の差が大きく影響します。
脳の性能の差はコンピューターの性能と同じで、CPUの処理速度、ネットワーク回路のアルゴリズム、記憶媒体の容量と情報の出し入れの速度です。「感覚が研ぎ澄まされる」という言い方がありますが、これは感覚器の性能のことを指しているのではなく、感覚野(脳)の性能が良いことを意味しています。
絵画、彫刻、建築、自然などの「美」を理解する美意識、様々な音を理解して、音楽を楽しめる能力、研ぎ澄まされた舌を持つ一流シェフやソムリエなど、全てこれは「脳」の差です。
人口的な香りをかぎすぎて、本物のバラのニオイが分からない子どもも?
最近では、大人になっても子供の味覚しか持っていない人が増えているともいわれます。一因として旬の素材を食べなくなったこと、インスタント食品などの人工的に作られた強くて粗野な味や香りになれてしまったことが挙げられます。
そして、嗅覚の発達にも同じことが言えます。子供のからからの、自然の微妙なニオイを嗅ぎ分ける訓練ができないと、本当の良いニオイを感じることはできません。最近の子どもは人工的な強い芳香に慣らされてしまい、本当のバラの香りを臭いと感じてしまうことが多いようです。
ニオイで彼女の心が動く!?
脳は建て増し家屋のように進化
人間が人間らしいのは、この大脳新皮質の発達のためです。しかし、大脳新皮質が発達する前の古い脳である、脳幹や大脳辺縁系の価値があまりないかというと、むしろその逆です。脳幹はもっとも古い脳ですが、心肺機能などの生命維持を行う、最も重要な脳機能を持っています。
脳出血などで死亡する多くの例は、脳の出血や腫れで密閉状態の頭蓋内の圧が高くなり過ぎて、脳幹を圧迫して心肺機能が停止するためです。
大脳辺縁系は脳幹の次に古い脳で、情動や意欲を司るほか、嗅覚などの古い感覚器を司っています。視覚や聴覚などの感覚野・言語野が大脳新皮質に広がっているのとは対照的です。
嗅覚は情動や意欲といった私たちの心と深く関わっており、ニオイと感情は表裏一体の関係にあります。もしあなたが、洗練された嗅覚を育てて、ニオイを制することができたら、あなたはそれを武器に彼女の、彼女さえ知らない深い情動の部分にアプローチできるかもしれません。
ニオイは人間の感情に深く作用する
洗練された嗅覚を育てるためには、先ず人間にとっての嗅覚の位置づけを理解しておく必要があります。霊長類の中でも、森からサバンナに進出し、直立歩行を行うようになった人類は、ニオイの元がある地表から鼻が大きく離れています。そのため、人類は長い進化の過程で、だんだんと嗅覚が衰え、代わりに視覚が発達したといわれています。
嗅覚野は「哺乳類の脳」といわれる比較的原始的な脳にあるのに対して、視覚野は大脳新皮質に多く分布し、その占める割合も他の感覚野よりも多いのがその証拠です。犬は人間の100万倍以上の嗅覚を持っているといわれますが、犬に限らず野生の動物は鋭い嗅覚を備えています。直立歩行する人間だけが、特別に嗅覚が衰えているというのが正しい理解かもしれません。
それだけに、人間においてはよほどの悪臭でもない限り、ニオイが大人の行動を直接支配することはありません。普段は大脳新皮質の理性が強く働いて、様々な行動を制御しているからです。つまり、人間は本能ではなく、理性を使って状況を判断し、その状況にあった適切な行動を取ろうとします。
もしニオイがその状況に全く合わないものであれば、好感ではなくむしろ嫌悪感を覚えてしまいます。要するにニオイにもTPOが大切なのです。しかし、ニオイは人間の感情に深く静かに作用していきます。決して解りやすい良いニオイだけが本当に良いニオイではありません。
あなたがもし洗練した嗅覚を育て、TPOに合わせた繊細なニオイ戦略を展開できれば、相手に深い忘れがたい印象を残すことができるのです。