何を「暴力」とするか、社会の認識もあらたまった
子どもに「公」の大切さを教えるのは大人
子どもの世界における「どこまでは許され、どこからは暴力か」の認識が変わったと言ってもいい。人に暴力を振るえば、受けた側には痛みと悲しみと恐怖とショックと、身体とこころの傷が残る。命に関わることだって当然ある。あらゆる理不尽な暴力に対して絶対にノーを突きつける態度は、子どもが幼い頃から大人が教え伝えていくべき、ひととしての基本的なルールだ。
学校現場や子どもと関わる現場で、大人の側にも子どもの側にもこのような姿勢が広く共有されるようになり、子ども同士のトラブルが起こると、大人が「きめ細かく」発見、対応されるようになった。このような意識の変化から、子どもの暴力を察知するアンテナも向上し、その帰結として報告数が増加したのは想像に難くない。虐待やDVやレイプなど、社会的認知を広げる啓発活動の結果、それらの報告件数が増加したのと同じ文脈でもある。
たとえば、「しつけ」か「虐待」か、「愛情」か「暴力」か、といった判断のボーダーにおいて、世論は近年目に見えて良い方向へ変化した。「暴力による指導は日本人の文化だ」といったような抗弁は通用しなくなった。日本人の、暴力への認識が社会全体で改められている。
子どもに社会性を教える先生
横浜市の小学校には、児童支援専任教諭が各校に一人配置されており、その経緯はこちらに詳しい。「児童支援専任教諭」、横浜市教育委員会が全国で初めて配置
児童支援担当が受け持つのは、こどもたちの心身の問題全般。いじめや不登校、発達障害や日本語に不慣れな児童への対応など、学校で起こる子どもたちの諸問題を一手に扱う専門性の高い教諭で、現場からの強い要望でポスト創設に至ったという。
現代は地域や家庭の教育力が不足していると言われるが、だからこそ学校という単位が、子どもたちが日々接する社会の単位として、重要さを増している。そこに、子どもたちの問題と専任で向き合う教師がいることで、子どもたちはこの時代に薄らいでゆく「公」の大切さを知り、「公」での振る舞い方を身につけていくのだ。
学校は、社会の一部であり、そのまま社会でもある。子どもの暴力は、大人の暴力の反映であり、穏やかな子どもの姿は、大人の穏やかさの反映だ。大人の世界のあれこれが、子どもの世界にも顕著に映し出されるのだろう。