地盤が軟弱な場所では橋は浮き上がり、
道は凸凹する

東京スカイツリー

東京スカイツリーのある場所はかつては北十間川と古川、曳舟川に囲まれたエリアになる(クリックで拡大)

今回は隅田川の両岸に広がる東京低地から武蔵野台地、台地に削られた谷底低地(こくていていち)を地盤調査の専門家とともに歩く。スタート地点は押上。現在はスカイツリーのある地として有名だが、この地名を聞いて何か、感じるところはないだろうか。押上、押し上げる、である。おそらくは川の堆積物が少しずつ陸地化していく様子を表したものではないかと思う。

 

曳舟川の表示

近隣には曳舟、曳舟通りがあるが、これは曳舟川からの地名。曳舟とはその名の通り、人が舟を曳くというもの。通り沿いの表示には説明の絵があった(クリックで拡大)

同様にこの周辺には水、地形に由来する地名が少なからず残されている。たとえば向島は対岸の浅草から見て、川の向こうにある島だったからだったし、対岸の今戸は元々は今津、つまり津(港)のあったところと言われる。

今戸の北には橋場という地名があるが、これも当然、橋のあったところの意。千束も水田のあったところで稲千束と豊作を祈念する言葉に由来するとか。吾妻橋、業平橋など橋のつく地名は言うまでもない。下町の地名にはかつてのその土地の状況をイメージできるものが多く残されているのである。

 

京成橋

橋を渡る際に道路と橋の高さに着目するだけで地盤が推察できる(クリックで拡大)

さて、集合した場所はスカイツリー脇を流れる北十間川にかかる京成橋。この橋の様子からも地盤の様子は見てとれる。「地盤が軟弱な土地で橋を渡ろうとすると山を越えるように、橋だけが高くなっていることがあります。橋自体は杭で支えられているので沈下しませんが、両側の道路部分は沈下するので、道路に勾配が生じてしまうのです」と住宅地盤調査・設計施工主任技師の高橋和芳さん。

 

へび道の地割れ

へび道の地割れ。よく見ると補修した部分の先の、ほぼ同じ位置に地割れが続いているのが見える(クリックで拡大)

また、地盤が軟弱な場所では道路も波打つように微妙に凸凹していることが多い。これも地下に埋設物がある場所が沈下せず、それ以外が沈下することから起こるもので、それがために道路が損傷しやすいことも。路面に地割れ、わだちが見られることもある。

実際、この後に訪れた谷中の通称へび道と言われる、かつての藍染川跡では道路中央よりやや山側に寄った、ほぼ同じくらいの位置に地割れがずっと続いており、地下の地形の違いが地表の舗装に影響を与えていることが推察できる。

 

電柱の傾き

手前と奥の電柱が違う方向に傾いているのがお分かり頂けるだろうか。場所によってはてんでに傾くことがある(クリックで拡大)

もうひとつ、軟弱地盤を示すのは電柱である。高台でも盛土をしたような場所では電柱が傾くが、低地ではより顕著。特に隅田川の東側は沖積層が地中深くまで続いているため、西側よりも地盤が軟弱で、傾いた電柱をそこここに見ることができる。街を歩く時には水平垂直を気にするだけでも、多くのことが分かるわけである。

 

隅田川沿いのかつての自然堤防上に
古い寺社が点在

待乳山聖天

隅田川近くにある待乳山聖天。ここは古来古墳ではないかという説もあり、人工的に土を盛って作られているとも(クリックで拡大)

押上から言問橋で隅田川を渡る。隅田川沿いには鳥越神社、浅草寺、待乳山聖天、石浜神社などの古い寺社が南北に点在しているが、この辺りは細長く砂利などが堆積した自然堤防だったと想定され、浅草外島(あさくさとしま)と称されている。低地とはいえ、微高地があったわけで、寺社はそうしたところに作られたのである。その浅草外島と上野の台地の間は千束池、姫ケ池などと呼ばれた池、湿地などが広がっていたそうで、時代が下るにつれ、最初は自然に、やがては人工的に埋め立てられて現在のような姿になった。

 

湿った基礎

山谷堀に面した建物の基礎。湿っているのが分かる(クリックで拡大)

かつては隅田川を望む景勝地だったという待乳山聖天を経て、山谷堀へ。ここは隅田川から千束の田圃の中に作られた吉原へ向かう水上ルートだった堀で、現在は埋め立てられて遊歩道となっている。江戸だった頃の東京はベニスにも匹敵する水の都だったと言われるが、このエリアにも複数の水路が張り巡らされていた。

墨田区内には前述の北十間川などいくつかが残されているが、台東区内ではほとんどが埋め立てられてしまっている。ただ、堀や水路の跡などを歩いてみると、湿っぽさが残されていることがあり、注意してみると建物の基礎などが好天続きの時でも濡れたようになってことがある。

 

合羽橋

合羽橋の道具街。川の埋め立ては瓦礫処理のため、関東大震災後、第二次世界大戦後が多く行われている(クリックで拡大)

山谷堀からかっぱ橋の道具街へ。ここはかつて新堀川という石神井川の支流が流れていた場所で昭和8年に埋め立てられている。名残りはかっぱ橋、菊屋橋などという商店街名、交差点名など。かっぱ伝説もあり、道具街途中にはかっぱの河太郎の像も作られている。ここに限らず、かっぱ伝説のある場所には川、池はつきものである。

 

低地に商店街、台地に美術館、大学、
高低差によって土地の利用法も異なる

上野駅

上野駅、公園口に向かって階段があり、高低差が目に見える(クリックで拡大)

上野駅は武蔵野台地と東京低地のちょうど境に立地する。「上野駅に限らず、鉄道は地形の境に敷設されます。崖の上でもなければ、水の被害を受けるような場所でもないというのがポイントです」。特に大船と大宮をつなぐ京浜東北線は見事なまでに台地と低地の境を走っており、同線を境に東が低地、西が台地と覚えておけば、首都圏の地形は理解しやすくなる。

 

高低差

2段になった線路面、その上の台地面には大きな高低差。ちなみにここ、鉄道好きならかなり楽しい(クリックで拡大)

上野の場合には東側にアメ横などの商店街があり、坂を上って西側に出ると国立美術館や東京藝術大学などがある。こうした配置は江戸時代の、身分によって住む場所が定められていた頃から続くもので、基本的には商店街は低地に立地する。北区にある霜降銀座商店街のように暗渠上にあるものすらあるほどだ。この辺りの事情については過去の記事を参考にしていただきたい。

 

●参考記事
理由は江戸時代に。金持ちはナゼ高いところに住む?
首都圏の商店街はなぜ低地にあるのか

 

続いて上野の台地から谷底低地へ。