勇気を振り絞り、自分を“変えた”留学体験
『レ・ミゼラブル』写真提供:東宝演劇部
「ミュージカルという世界に惹かれたんです。稽古の半年間は毎日つらかったけど、本番で目の前の大勢の方々から拍手をいただけたことに感動してしまったんですね。その後、中学の間はミュージカルの子役の仕事でずっと忙しくしていたんですが、中3の時に変声期が来て。それまで出ていた高い音も低い音も出なくなって、気持ち悪い声になってしまったんですよ。子供の歌も女性の歌も、男性の歌も歌えない。ずっと歌ってきたから、どんなに声が出ないかがよくわかるんです。“もう人前で歌いたくない”と落ち込みました。絶望していましたね。
けれど、当時の声楽の先生が僕の出演作を観てくださった上で“君がもし将来ミュージカルをやりたいのなら、今からクラシックを勉強しておけば絶対プラスになる。やってみないか”と言ってくれたんです。オペラなんて興味ないと思いながらも、今の状況じゃミュージカルにも出られない。それなら、と音大の付属高校を受けることに決めました。中3の夏から毎日、先生の家に通って、それまで弾いたことのなかったピアノ、ソルフェージュ、イタリア歌曲集を必死にやったら、ぎりぎりで合格。ここでしっかり歌を勉強しようと思いました。
そのころちょうど、井上芳雄さんが『エリザベート』のルドルフ役でデビューされたんですよ。それまでミュージカルの世界では(二枚目役でも)ベテランの方が多かった中で、背が高くて若くてプリンスのような井上さんが現れて、かっこいいなと思いながらも、“くそ~、絶対負けないぞ、いつかは僕もあのステージに立つぞ”とひそかに思いました(笑)。彼が目標になりましたね」
――声楽を勉強してどんなことが特に良かったですか?
「体を使って歌うことももちろん学べましたし、声楽の世界では“譜面から作曲家の意図をくみ取る”ということが非常に重視されていたので、ピアノを弾きながら、譜面を見てその場で歌うことができるようになりました。ミュージカルで役が決まるとまず楽譜を渡されるので、その点でもよかったと思います。
StarS ツアー公演 撮影:川並京介
――高校時代には留学もされたのですね。
「二人の兄が留学していたこともあって、アメリカの普通科高校に行ったんです。兄たちに“1年間日本人と喋られなければ絶対英語が喋れるようになる”と言われてミズーリ州の、空港から4時間くらい車で走った、白人しかいないような町に行ったんですけど、はじめは大変でしたね。アジア人なんて見たこともないという子供たちばかりで、初日に学校を歩いていたら、いきなり突き飛ばされました。こちらが英語が喋れないとわかると、がんがんいじめてくるんです。
それが変わったのは、生徒会主催のダンスパーティーがきっかけでした。毎月、体育館でDJを呼んで開催していたんですが、アップテンポな曲になると500人くらいが円になって、ダンスが得意な子が真ん中で踊るのを見るんです。僕は友達が一人もいなくて、はじめは隅の方で一人で座っていたんだけど、みんなをじっと見ながら“もし今ここで踊りに行ったら、俺の人生、変わるかもしれない。もういじめられないかもしれない”と思った。思い切ってばーっと円の真ん中に走って行って、子役時代にダンスの経験もあったのでうわっと踊ったら、すごく盛り上がって“IKU、IKU”コールが起こったんです。
翌日にはスターになっていました(笑)。僕を突き飛ばしたやつも“ヘイ、お前最高だぜ”なんて声を掛けてきて。待ってても何にも始まらないし、シャイでいるって意味のないことだ、と学びました。それまで、子役をやっていてはいても依然として人前が苦手だった自分が、自分から表現していかないと生きていけない国に留学したことで変われた瞬間でした」
――アメリカという、表現する人に応えてくれる国民性の国に留学したのも良かったですね。
「そうですね。日本だと逆に表現する人を冷めた目で見る人もいるかもしれないけど、アメリカ人は何かやる人に対しては絶対耳を傾けたり、反応する。表現しないと“何考えてるか分からない”と思われちゃうので、はっきり表現することが大事だと学びました。
オペラとはまた違う音楽に触れようと思って、留学中は合唱部に入ってポップスやゴスペルを勉強しました。帰国して、付属高校を卒業後、音楽大学に入ったのですが、入学ぐらいの時期にアルゴ・ミュージカルの演出家から『レ・ミゼラブル』のオーディションの話をきいたんです。声変わりから4,5年。“そろそろ声も大人になってきたかな。自分の声がどれくらいミュージカル界で通用するかな”という気持ちもあってチャレンジしたのがマリウス役でした。そこで受かって、以来ずっとミュージカルの世界にいます」
*次ページではマリウス以降のキャリアについてうかがいました。