東京と群馬(上野国)を結ぶから東上、
東武鉄道と合併して東武東上線に
山手線池袋をターミナルとして東京都板橋区から埼玉県寄居町までの75キロを走る東武東上線が誕生したのは大正3年5月。平成26年にちょうど100年を迎えた。もともとは川越から江戸まで物資を運ぶために半人工的に作られた新河岸川の水運の代替として敷設された路線で、開通当初の名称は東上鉄道。最終的には東京と上野国(こうずけのくに、今の群馬県)を結ぶ計画となっていたため、東上と名付けられた。当初、予定されていたルートは池袋から渋川、沼田、土樽、越後湯沢、六日町、小出を経て長岡までを結ぶもので、これは現在のJR上越線とほぼ同じもの。日本海側と繋がることでモノ、人を大量に運びたいというのが意図だったのだとか。ただ、現在の上越線の状況を考えると、そこまで延伸しなくて良かったといえるかもしれない。
また、当初は池袋ではなく、巣鴨が始発になる予定だった。というのは、その当時の池袋は大きな池、豪農の屋敷などがあるばかりの場所で、巣鴨のほうがはるかに栄えていたため。ただ、田端~池袋間にはすでに豊島鉄道(後の山手線)が敷設されており、新路線を敷きにくかったことから、池袋に始発駅を作ることになったいう。最初に開業したのは池袋~田面沢(たのもさわ)間の33.5キロ。この田面沢駅は入間川右岸にあったそうだが、2年後、川越市~坂戸間が開業したことに伴い、廃止されている。
その後、大正9年には東武鉄道が東上鉄道を合併、東武東上線が誕生する。他の鉄道会社の複数路線はどこかしらで接続しているものだが、東武線と東武東上線の場合には浅草、池袋始発でそれぞれ郊外に伸びており、直接、接続はしていない。ただ、秩父鉄道が寄居で東武東上線と、羽生で東武伊勢崎線で接続しているため、車両をこの2路線間で移動する時には秩父鉄道を介するのだとか。また、エリアが全く違うためか、東武東上線は独自色が強く、業務上も独立した部門を持っていたりするそうである。
東武鉄道初の宅地分譲は昭和11年、
今も面影が残るときわ台
寄居までの全線開通は大正14年。その後の歴史で、忘れてはならないのが昭和11年の常盤台の宅地分譲。東武鉄道自体は明治30年創立で、首都圏の私鉄の中では最古。しかしながら、宅地開発では他社に遅れをとっており、満を持して発売したのがこの地である。そうした意気込みを反映、敷地内には当時としては先進的な地区内を一巡するような散歩道や袋小路の終点にロータリーを設けたクルドサックなのランドプランが取り入れられている。戦災を受けなかったため、現在もこのエリアには往時の街並みが残されており、歩いてみると当時、理想とされた住宅街の姿が浮かぶようである。
ちなみに最寄り駅ときわ台の開業は昭和10年。開業時の駅名は武蔵常磐でそれが平仮名になったのは昭和26年。今も当時の青い瓦のかわいい駅舎が残されていることでも知られている。
戦後は行楽列車も多数、
遊びに行きたいスポットも多数
戦後の東武東上線で面白いのは日曜、祝日に他路線も利用、様々な方面行きの行楽列車を多数走らせていたこと。たとえば、夏には海水浴客の団体列車を川越市から大宮、船橋を経由して直通運転したり、紅葉狩りの観光客向けに武蔵嵐山から東武日光までの夜行直通列車を運行したり……。サービス精神旺盛な沿線というわけだ。昭和42年に行楽列車自体は廃止されるが、その後も目的地別、季節ごとの特急などが運転されている。
考えてみると、東武東上線は荒川や森林公園など自然やハイキングが楽しめるスポットから、歴史に親しめる川越、小川町などと行楽スポットには恵まれており、都市部にも光が丘公園、城北公園など大きな公園が点在。遊びに行くにも楽しい沿線といえる。
昭和37年にオープンした東武百貨店も沿線住民には大きな存在。開業初日には20万人が押しかけたそうで、その後、平成4年に増床、平成15年に名古屋の松坂屋に抜かれるまでは日本で一番売り場面積の広い百貨店だった。
それ以降の話題といえば、昭和62年の東京メトロ有楽町線、平成20年の東京メトロ副都心線、平成25年の東急東横線・みなとみらい線との相互直通運転が大きい。特に東上鉄道の鉄道設立趣意書には横浜の文字もあったことを思うと、100年近くを経て東上線が横浜とつながったのはめぐり合わせともいえるかもしれない。これらの相互直通運転により、新宿、渋谷、銀座などの都心部に加え、横浜までが直通で行ける範囲となり、東武東上線の利便性が格段に向上したのは言うまでもない。