道路に「はみ出る」側の言い分
「昔はよかった」? 時代も違えば交通事情も違う。
「自分が小さい頃は道で近所の子と遊んだもんだ」。自分が小さい頃の楽しかった体験を大事に思う気持ちはよく分かる。でも、交通事情が劇的に変わっている。住宅事情も大幅に変わっている。騒音に対する社会の見方や感じ方も相当に変わっている。自分が置かれている時代と状況に合ったやりかたを積極的に考えないと、自分の子どもが危険にさらされる。それを感じ取る感性に乏しい。
「みんなやってるし。なんでウチだけが責められるわけ」。難しいことは考えずに集団に身を任せる。自分がその道を選択した責任は引き受けない。社会的な未熟さは、時に論理性を無視した「逆ギレ」となって表れる。
「遊ばせる場所がないんだよ、遠いし」。それは確か。公園には禁止事項が多いのも確か。ところが、道路族が子どもに何をして遊ばせているか、決してそれは公園ではできないような、大掛かりな球技や競技などではなかったりもする。単に小さな子どもに足踏み式の乗り物を与えて遊ばせているだけだったり、子ども数人に携帯ゲームを与えているだけだったり。その真ん中で、親がたむろって大声で世間話をする。
自宅リビングの延長でたむろする
道路族は公園管理を厳しくしている行政のせいだ、と問題を広げるひとがいるが、それは方向性が違う。道路族は、都市計画行政など髪の毛一筋も意識していない。道路を家のリビングの延長感覚で使っているだけなのだ。公園は、どれほど近くにあろうとも彼らの感覚では「遠い。面倒くさい」。それは、マイルドヤンキーの生活をつぶさに調査した「ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体」(幻冬舎新書)で、博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダー・原田曜平氏が洞察したように、マイルドヤンキーの極端に狭い行動圏に顕著に現れている。
半径5キロメートルの行動範囲。地元への固執。まだ若いにも関わらず昔からの馴染みの仲間へ強い愛着を持ち、新しい人間関係を警戒し、交遊を広げない。自宅リビングの延長となるようにカスタマイズされたミニバンやワゴン車で家族ごと移動する。原田氏は、そういう閉じた快適さの追究とは、リアルな社会にさらされることへの消極性、もっと言うならば、恐怖を裏返したものであると鋭く指摘する。
自分たちとは違う層がうようよしている、リアルな社会にさらされると、実際はとても繊細な彼らは現実を否応なく知らされ、傷つく。電車移動を嫌がったり、東京を怖がったり、上昇に尻込みしたりして、「地元がいい、仲間がいい」と20歳にもならないうちから閉じている。そういう層が親となってなお、自分たちだけの狭い快適を追究する。それゆえの「自宅前道路」なのだ。