2011年『レ・ミゼラブル』オリジナル版最終公演では史上最年少の32歳でジャン・バルジャンを演じ、2013年からスタートした新版ではバルジャンとジャベールの二役を演じた吉原光夫さん。帝劇をはじめとするミュージカルの舞台に立ちながら、2009年に自らが創立メンバーの1人として立ち上げたArtist Company 響人では主にストレートプレイ(台詞劇)を上演し、出演だけでなく演出や若手育成などにも力を注いでいます。

3月某日、世田谷区内のスタジオで行われている響人・第9回公演『楽屋・署名人』のお稽古場にお邪魔して吉原さんにお話を伺って来ました。後半では『楽屋』の稽古場リポートもお届けしますのでお楽しみに!

吉原

(撮影: 演劇ガイド・上村由紀子)

やんちゃだった10代、人生を変えた作品との出会い

――10代の頃はちょこっとやんちゃだったそうですね。

吉原
そうなんですよ(笑)。家庭環境のせいにしちゃいけないんですが、母がパンナム航空のCAをやってまして共働きの家庭だったんですね。それで自分はお婆ちゃん子だったんですが、家に帰ってラップがかけられた食事を温めて食べるのがなんだか悲しくて寂しくて……。そんな中、あ、公園に行ったら誰か友達がいるんじゃないかって……灯りに誘われどんどんそちらの道に。とは言っても当時バスケットボールはかなり一生懸命やってまして、高校もバスケの推薦で進みました。

――それで高校卒業時に人生初の挫折を経験してしまう。

吉原
本当はそのまま大学もバスケの推薦で行くつもりでしたし、行けると思ってました。で、それが叶わないとなった時に当時の学校の先生に薦められたのが北海道の大学だったんです。それこそ冬は閉ざされてしまうような場所で、皆で自給自足で生活するような凄い環境。流石にそれは無理だと思って、進学はせず先輩の伝手で肉体労働の現場に入ったりしながら空いた時間は遊びまくってました。昼と夜が逆転している生活でしたね。

――その生活から何故日本工学院八王子専門学校演劇俳優科(現:クリエイターズカレッジ声優・俳優科)に進もうと思われたのですか?

吉原
いつもはキレない親父がある時めちゃめちゃキレまして、「お前、いい加減にしろ!」って怒鳴って顔をストーブにグイグイ押し付けられたんです。それはもう物凄い形相で今までで1番怖かった。その時に専門学校の費用は出してやるからと言われ、日本工学院に行く事にしたんです。まあ、バンドをやってて人前に出るのは嫌いじゃなかったし、演劇って何だか簡単そうだなー、屋上でアイウエオとか声出してるだけなら楽勝、とか思って。

――その奥に深ーい扉があると想像もしなかった頃ですね。

吉原

(撮影: 演劇ガイド・上村由紀子)


吉原
本当ですよね(笑)。そんなモチベーションだったんで当然授業には全然付いていけず、すぐにもう辞めよう……と。だけど同期は皆仲良くしてくれたんで、お別れを言うつもりで出た授業で雷に打たれたんです。

――それはどんな?

吉原
その時の先生が以前四季にいた方で「今日は最初の授業なので私の1番好きな作品を観て下さい。」と『ジーザス・クライスト=スーパースター』の映画を流し始めたんです。最初は後ろの方の席で「けっ、ミュージカルかよ」とか思いながらふんぞり返って観ていたんですが、ユダが登場し歌い出した辺りから震えが止まらなくなり、映画が終わる頃には物凄い前のめりな状態で画面に食らいついてました。それで先生に「どうしたらこれに出られるんですか?」ってブルブル震えながら聞いたら「この作品の版権は劇団四季が持ってるから四季に入らないと。」と言われ、その後劇団四季の研究所に行く事に決めました。

――まさに”雷”ですね。それまで四季の作品は観ていたのですか?

吉原
いえ、もう全然。本当に何もわからないまま研究所に入って劇団に入団しました。ある時稽古場の廊下をヘコんで歩いていたら、背が高くて雰囲気のある年配の方から「最近どうだ?」って話しかけられて「ったく、どうもこうもないですよ。」と……。実はこの時話し掛けてくれたのが代表で……僕、それすら分かってなかったんですね。今やこの話は伝説です。

次のページではまだまだ続く劇団時代の「伝説」と、退団後の吉原さんに迫ります!