頑固な健介の意識を変えた鬼嫁・北斗晶
そんな健介が変わったのは2003年12月にフリーになり、妻の北斗晶をマネジャーにしてからです。元女子プロレスラーの北斗は「何でタイツは黒じゃなきゃいけないの?」から始まり、健介にプロレスラーとしての意識改革を促しました。夫婦としてだけでなく、プロレスラー同士として北斗と向き合い、2人で考えていく中で、健介は変わっていきました。カラフルなタイツを履くようになり、新日本時代は見向きもしなかった団体にも上がって「こうあるべき」の枠を広げることでプロレスの幅を広げていきました。「フリーになる前は意見が合わなかったんですよ。性格の不一致じゃなくてプロレスの不一致。でも、フリーになって、ある意味で悟ったんですよ。プロレスラーだけど人間なんだから、人間らしい気持ちで戦うのが一番いいんじゃないかって。人間が戦っているんだから、プロレスに喜怒哀楽があっていいんじゃないかって。昔は写真撮影になると怖い顔をしてレンズを睨んでいたけど、最近は“笑顔でお願いします!”っていう注文が多いんですよ(苦笑)。でもフリーになってから“これも俺なんだ”って変わりましたね。“北斗の尻に敷かれる佐々木健介も俺なんだ”ってね(笑)」というのは、フリーになって何年か経ってから聞いた健介の言葉です。
健介は新日本時代に頂点のIWGPヘビー級王者になっていますが、フリーになり、健介オフィスを興してからは全日本プロレスで三冠ヘビー級、プロレスリング・ノアではGHCヘビー級王座を獲得。史上初の日本3大メジャー・タイトル制覇の偉業を成し遂げました。
息子として育てた中嶋勝彦に負けた時に……
47歳になったとはいえ、まだまだコンディションもいい健介の今回の引退はプロレス関係者も驚く衝撃の出来事でしたが、それだけ引き金となった中嶋戦は健介にとって意味があるものだったのでしょう。中嶋はデビューしたばかりの16歳の時にWJプロレスを退団して健介のもとに押しかけ入門しました。当時、フリーになったばかりで経済的余裕もなく、先も見えない健介&北斗夫妻は、子供がひとり増えたという気持ちで受け入れ、自宅に住まわせました。健介&北斗には2人の息子がいましたが、中嶋をプロレスラーとして育てるのはもちろんのこと、長男のつもりで人間としても育てる決意をしたのです。
それから10年、中嶋は青年から立派な大人へと成長し、一昨年には結婚して家庭を持つまでになりました。今回の試合はデビュー10周年として中嶋が「佐々木さん…いやオヤジ、僕と勝負してください」と望んで実現したものでした。果たして中嶋は得意技ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利し、父親越えを達成しました。
そして冒頭の健介の言葉になりました。健介は、中嶋がプロレスラーとして人間として一人前になったことを心から喜びました。初めて「負けても嬉しかった」という感覚になりました。しかし、それは「負けてなるか!」と反骨心でここまで来たプロレスラー、佐々木健介に芽生えてはいけない感情でした。その時に健介は「ああ、プロレスラーとしての俺は終わったんだな」と悟ったのです。
あれほどプロレス、トレーニングが好きで、まだまだ戦える健介がスッパリと引退するのは信じがたいことですが、そこには2009年6月に三沢光晴さんがリング上の事故で亡くなったこともあるかもしれません。当時、健介も北斗も「よくリングの上で死ねたら本望だと言いますが、生きてリングを降りなければいけないということを実感しました」と涙ながらに語っていました。そう、健介は元気なままリングを降り、これから新たな人生を歩むのです。3月7日~30日までの萩本欽一が主宰する欽ちゃん劇団の明治座公演への出演が決まっていますが、リングシューズを脱いだこれからの佐々木健介にも注目しましょう。