江戸時代の農村、明治の軍都から
高度経済成長期には住宅地へ

地図

駅北口のペデストリアンデッキに設置されている習志野市、船橋市の地図。北口から少し歩けば船橋市に入る(クリックで拡大)

総武線で東京駅から約30分、津田沼駅は千葉県習志野市と同船橋市のちょうど境あたりに立地します。駅の北側は駅から少し離れると船橋市前原東1丁目、前原西2丁目などとなっており、南側は習志野市津田沼、そして現在土地区画整理事業が行われている奏の杜など。南側には町名としての津田沼もありますが、ここでは津田沼駅周辺ということで、どういう街なのかを見ていきましょう。

 

平成26年に市制施行60周年を迎える習志野市は今から2万数千年前の旧石器時代から人が暮らしてきた場所。江戸時代には大消費地江戸の近郊生産地として農業が発展します。その後、街を大きく変えたのは、明治6年(1873年)に習志野市、船橋市、八千代市にまたがる小金牧の一部が陸軍の演習場となったこと。明治天皇はこの地を「習志野原」と命名、それがやがて、この地の自治体名となります。

京成線

新津田沼から新鎌ヶ谷を経て松戸方面に向かう新京成線。沿線には大規模なマンションがあるエリアも(クリックで拡大)

演習場に続き、明治29年には高津廠舎(日露戦争・第一次世界大戦中にはロシア兵・ドイツ兵の捕虜収容所が置かれる)、明治32年に市内大久保に騎兵旅団、同40年、現在の津田沼駅周辺に鉄道大隊(のち鉄道第2連隊)が置かれるなど習志野市内には軍関連施設が次々と設置され、それと合わせて鉄道の敷設が進みます。総武線津田沼駅の開業は明治28年、京成線各駅の開業は大正10年代となっており、これらの軍隊と鉄道が今の津田沼駅周辺に賑わいの基礎となっていくわけです。

 

子育て世帯

街中で目立つのは子育て世帯、予備校や塾、書店など。学生の姿ももちろん、多い(クリックで拡大)

戦後、旧軍施設は学校、住宅、工場などに変わり、昭和29年(1954)には津田沼町と千葉市の一部が合併し、習志野市が誕生します。これ以降、高度経済成長期から昭和40年代、50年代と相次ぐ埋め立てで市域は拡大、宅地化は一気に進展していきます。

 

大型商業施設の価格競争は
「津田沼戦争」とまで呼ばれた

商業施設

新京成線新津田沼駅。イトーヨーカ堂、イオン津田沼ショッピングセンターが隣あっており、道を挟んでミーナ津田沼が(クリックで拡大)

その後、津田沼を有名にしたのは1977年以降に勃発、2000年代まで続き、俗に「津田沼戦争」と呼ばれた、大規模商業施設の激烈な価格競争でしょう。その主役となったのは北口の新京成線新津田沼駅前に現在もあるイトーヨーカ堂津田沼店、JR津田沼駅前にあるパルコ、西友からなる西武津田沼ショッピングセンター、そして南口にあるダイエー、津田沼高島屋をキーテナントとするサンペデック。この争いにはそれ以外にも地元資本のショッピングセンターなどが絡み、また、ダイエーの栄枯盛衰といったドラマもあり、なかなかに複雑なドラマなのですが、ここでは割愛。建物自体は現在も同じものが存在していますが、中身は変遷を経ているとのみお伝えしておきましょう。ただ、変遷はあったものの、現在も駅周辺には複数の大型店が存在、この街の利便性を支えています。

 

北口商業エリア

北口、総武線と平行する通り。通り左手にパルコ、奥にイトーヨーカ堂などが見える。時間によってはけっこう渋滞するエリア(クリックで拡大)

さて、そんな津田沼駅の現状を見ていきましょう。まず、北口側。こちらはJR津田沼駅と新京成線の新津田沼駅にかけての間が商業エリアとなっており、津田沼駅の前にパルコ、新津田沼駅の周辺にミーナ津田沼、イトーヨーカ堂、イオン津田沼ショッピングセンターがあり、飲食店なども多数。買い物客を集めています。

 

構内の農産物直売所

総武線津田沼駅構内には千葉県産の農産物を売る店が(クリックで拡大)

商業エリアを抜けると、一戸建てが中心の住宅街。ところどころにマンションも点在しますが、それほど大規模なものはなく、中小規模が大半。畑なども残されており、のんびりした雰囲気があります。

 

続いて土地区画整理事業、住宅供給が目立つ南口と周辺の住宅事情を見ていきましょう。