「学校カースト」で育った世代が親になる
「カースト」という言葉が、最近もてあそばれている。階級や職級による上下関係が本来存在しないはずのクラスメートやママ友という関係性の中で、無視できない立場の上下、力の強弱が生まれている現象を指すのに丁度扱いやすく、日本人の感覚に浸透しやすい単語だったようだ。「階級がないってことにしようよ」とみんなで目配せしあう擬似平等社会の日本ではあるが、しかし人間関係に上下をつけたいと思うヒトとしての原始的な心理は否定しがたく存在する。特に教室や職場など、日々顔を合わせ閉じ込められ逃げられない環境ほど、意識するにせよしないにせよ、ひとは居場所を確保しようとして有形無形の力の誇示を始め、順序が形成される。
現代の子育て層は団塊ジュニア前後の世代、一教室に約50人が詰め込まれて育ってきた人々だ。難しい思春期の子どもたちが狭い部屋に詰め込まれるという混沌のなかで、やがて子どもたちは自主的に階層を、「秩序」を形成し始めるのである。
思春期をこじらせたのはオタクだけじゃない
実は教師にとっても、子どもにとっても、教室内の力関係とその結果としての階層は「逃げられない箱=教室」の中で一年間生きるための方策であり、だからこそ悲喜劇も起こる。「逃げられない箱」はしかし、大人数に一斉に「教育を施す」にはもっとも効率的な方法であるため、日本ではなぜか大人数に固執するところがある。大人数だったら「もまれて」「わがままを直されて」「社会性がつく」と信じている。社会性の第一義とはすなわち、上部からの命令に従順であること、ワガママを言わないことだと思われているのかもしれない。とっくにそんな「逃げられない箱」を卒業したのに、学校も職場も抜け出したはずなのに、集団をみると幼少から叩き込まれ続けたその精神、「階層秩序を形成」しようとする精神が頭をもたげてしまう。それがママ友界で開花したものが、ママカースト(©AERA)であり、女同士のマウンティング(©瀧波ユカリ)なのである。
これを「カースト」と呼びたがるのは、学校時代、そんな狭い箱の中で繰り広げられた階層秩序が、きっとみんなの中で決して幸せな記憶ではないからなのだろう。不満や不安やトラウマを呼び起こす何かが、大人になってもいまだわだかまっているからなのだろう。それはまさに「思春期をこじらせた」と表現されるものではないのか。いわゆる「ママ友トラブル」を扱う文脈で「女子中高生みたいなメンタリティ」というタームが頻出するのは、それが理由ではないのか。思春期をこじらせるのは、なにもオタクや腐女子ばかりでないのだ。