※字数の都合上、前編と後編に分けて掲載しております。いささか長文ではありますが、あわせて読んでいただけると冥利に尽きます。
本名『金永吉』と芸名『永田絃次郎』
永田絃次郎は1909年、朝鮮半島の平壌近辺で生まれた。成績優秀だった彼は19歳で朝鮮系日本人としては初めて陸軍戸山学校軍楽隊に合格し、首席で卒業するに至った。
日本音楽コンクールで連年高い評価を受けた彼は、1934年にポリドール、キング、朝鮮向けポリドールなどでレコードデビュー。
芸名ははじめ二転三転していたが、翌年には永田絃次郎に一本化。
1936年にはすでに国際的スターだった三浦環の相手役に抜擢され、オペラ『蝶々夫人』(日本初演)に出演し、レコード歌手と並行してオペラ歌手としてもキャリアを築いていくことになる。
『朝』が大ヒット!国民的歌手に
同年、ラジオ番組『国民歌謡』で歌った『朝』が大ヒット。作詞を島崎藤村、作曲を小田進吾が担当しており、曲調はオーケストラ風の伴奏をフルにいかした、 ややポップではつらつとした唱歌風だ。特にBメロに入ってリズミカルになる部分をとらえたテクニックやラストのイタリアっぽい声の張りあげ方は、オペラ、 西洋歌曲に通じた永田ならではのもの。
『国民歌謡』は"家庭で歌える健全な歌謡曲を作る"としてNHKが楽曲制作まで主導して始まったもので、そのヒット歌手第一号となった永田の知名度は急上昇。軍歌、戦時歌謡、歌謡曲、童謡、西洋民謡なんでもこいで次々とレコードをリリースしていくことになる。特に長門美保と歌った『愛馬進軍歌』や『出征兵士を送る歌』など愛国歌、戦時ムードの強い曲が大ヒットしたこともあり、永田は"国民的歌手″としてスター街道を歩んでいった。
『帰れソレントへ』
永田はさまざまなジャンルの楽曲を歌っているが、先にも挙げたとおり、その音楽性の根幹はオペラ、クラシック、西洋歌曲の中でも、非常に正統なテクニカルな部分にこだわったところにあると思われる。1939年にリリースされた『世界民謡傑作集』の中の一曲『帰れソレントへ』にはそれが集約されている。
歌詞は西洋歌曲の訳詩を多く手がけた妹尾幸陽によるもので、現在知られているものとは異なるが、より情緒的、リズミカルな印象でイタリア語の原詞にある フィーリングをよく伝えている佳作だ。先にこの曲を発表していた、やや大衆ウケを狙ったような、歌劇調の奥田良三、藤原義江のバージョンとの差別化も意識にあったのだろうか。 シャッフル気味な伴奏に合わせたボーカルは余計な感情を表に出さず、均等のビブラートを多用した正統派の唱法にもかかわらず非常にキレがよく、既成のバー ジョンとは違う方向からのアプローチに成功している。映画『君と僕』で李香蘭とも共演
活躍は音楽の世界のみにとどまらず、1941年には大作軍国恋愛映画(!)『君と僕』で日本軍に志願する朝鮮系の青年役として主演をつとめた。先に紹介した李香蘭も満州人少女役で出演していて興味深い。監督、脚本家を担当して、実質的にこの作品の企画者である日夏英太郎が朝鮮系だったということは永田にとって心強いものだったに違いない。ストーリーには 日本と朝鮮の協力、一体化をうたった戦時イデオロギーがみられる一面、朝鮮の民謡や歴史、風俗が美しく描写されており、当時の読売新聞でも「構成の平明や表現の素朴さ故にあたゝか味のある作品」「国策的映画が陥るおつかぶせるやうなお談義も比較的少なく、うつろな掛声のないこともよい」と好意的に評価されている。
軍楽隊に召集 部下を殴らない永田
太平洋戦争が激化しつつあった1942年の暮れ、永田は軍楽隊に召集された。これには"才能を持った若者を戦地に送りたくない"という上層部の思惑があったようだ。他にも團伊玖磨、芥川也寸志など、戦後の音楽界を担うことになる音楽家が顔をそろえている。
この時期に永田と交際して、その人柄に魅せられた人は多い。團は
「彼が軍曹でぼくは上等兵。でも、あの人だけだったんだ、人をなぐらなかったのは。怒らないんですよ。人格高潔な方です。」(『朝鮮画報』1967年5月号)
また軍楽隊の部下だった高澤智昌も
「(地方公演の)先々で出るお酒や食事が楽しみでねぇ。永田さんはとても酒好きで、新潟だったか、泥酔して風呂場で寝てしまった永田さんを起こしにいったことを思いだす。温厚な人柄でユーモアがあり、後輩に慕われていましたよ」(『北朝鮮に消えた歌声―永田絃次郎の生涯―』)
とそれぞれ好意的に永田を述懐している。
ともかくも当面の音楽活動が保証された永田は戦時中も数々の曲を発表。さすがに戦時色の強いものが多いが、その方面でも圧倒的な声量とテクニックを発揮して名曲を多数生み出しているのが永田の名歌手たるゆえんだ。