※字数の都合上、前編と後編に分けて掲載しています。いささか長文ではありますが、あわせて読んでいただけると冥利に尽きます。
今回ご紹介するのは外国人?歌謡
李香蘭(り・こうらん)と永田絃次郎(ながた・げんじろう)。今回、戦前の代表的な『外国人歌謡』として紹介する二人は、実はそれぞれカッコ付の「外国人」だったという点で共通している。
ご存知の方、おわかりになる方も多いと思うが、李香蘭は中国人として売り出していていたものの実は日本人で、それを明らかにしたのは戦後になってから。永田絃次郎は朝鮮半島出身ではあるが、生誕の翌年には日韓併合。日本人である妻の実家の籍に入ったりもしたが、そもそも本人自身、朝鮮系の日本人歌手として活動しており、出自を隠すことはなかった。
異文化交流 親善のシンボルとして
つまり当時は実際の日本人だったが、"外国人"、"異文化にルーツを持つ"歌手として活動していたということだ。国籍やその呼称、本人が称するに至った経緯は非常にデリケートな問題もはらんでいるため、この二人を『外国人歌謡』と扱うことに迷いもあった。李香蘭は別に自分の意志で中国人を称したわけではないし、永田絃次郎に関しても、彼が戦前に残した軍歌や戦時歌謡はクオリティもさながら、たいへん熱意がこもったように聞こえ、今現在の概念で"外国人"と簡単に呼んでしまうことがしのびなく思える。しかし、両名とも当時のリスナーに対し、良い意味での外国人感、つまり融和や親善のシンボル的な役割を果たしていたのではないかという考えに基づき、広義の外国人歌手として敬意を持って紹介したいと思う。
親中国家の家庭に育った李香蘭
彼女は1920年、中国の満州地方に赴任していた日本人の両親のもと、山口淑子として生まれた。親中国的な教育を受けた彼女は13歳の時、当時の風習により、両親と親交の深かった李際春から義理の娘としての名前を与えられていた。この名前こそが後に東洋一のスターとして時代を席巻することになる“李香蘭”。製作陣のその場しのぎで中国人としてデビュー
ちょうどその頃、イタリア人オペラ歌手のマダム・ポドレソフに師事するようになった彼女は瞬く間に才能を開花。半年もするとマダムのコンサートの前座を務めるようになる。
その客席には奉天放送局の製作担当者がいた。彼は当時、『満州新歌曲』というラジオ番組を担当するにあたり、主役のキャスティングに"日中のどちらの言葉にも堪能で、音楽的素養のある中国人少女"という困難な課題を突きつけられていた。そんな彼が窮余の一策として白羽の矢を立てたのが舞台にあがった少女。すべての事情を知りながら、放送局は彼女を中国人少女"李香蘭"としてデビューさせる。1933年のことだった。
思いがけない女優デビュー 東アジアを代表するスターに
しばらくは学業と両立させながらマイペースに芸能活動を続けていた李香蘭だったが、ある日、満州映画協会の社員の訪問をうけ、"映画『蜜月快車』中の歌の吹き替え"の仕事を承諾。ところが実際にスタジオに行ってみるとプロデューサーのマキノ光雄(長門裕之、津川雅彦の叔父にあたる)によって主演女優として仕立て上げられ、あれよという間に専属契約まで結ばされたということだ。李香蘭には中国娘然としたチャイナドレスのイメージが根強いが
「支那の娘は女学校時代からパーマネントをかけ口紅をつけている。彼女達が支那臭いというよりみなアメリカ臭いのはアメリカ映画の影響ですが」(『読売新聞』昭和1939年10月30日朝刊 『目下上京中の満映スタア李香蘭さんの支那と満州に関するお話』)
と彼女自身が紹介している通り、当時の中国のティーンエイジャーは平均的に日本よりもアメリカナイズした先進的なファッション性を持っていたようだ。日本の大衆にとって、李香蘭の洗練されたビジュアルは、ハリウッドスターにあこがれを抱くような感覚に近いものがあったのかも知れない。
とにかくも1938年に公開されたこの作品は劇中歌の『我們的青春』(ディックミネ、星玲子『二人は若い』のカバー)、『甜蜜的新婚』(アメリカ民謡『オクラホマ ミキサー』のカバー)とともに大ヒット。同時期に学業も満了した李香蘭はこれをきっかけに本格的に芸能活動をスタートした。
以後、1940年までに製作した、当時の日本を代表する二枚目スターだった長谷川一夫とのダブル主演による"大陸三部作"映画『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』が東アジア一帯で大ヒット。中国の一部の反日インテリ層からは"日本人に恋愛する李香蘭の態度が国辱的"だという批判があったものの、大衆からは国を問わず熱烈な支持をうけ、李香蘭は一躍東アジアを代表するスターに登りつめた。