沖縄の戦跡

ireihi

沖縄の地を歩いていると至るところで沖縄戦で亡くなった人々の魂を祀った慰霊碑に出逢う。きれいに手入れされたものだけでなく、草むらの中、今にも朽ち落ちそうなものまで、その姿も実に様々。

沖縄といえば、エメラルドグリーンに輝く美ら海と一年中島を彩るハイビスカスやブーゲンビリアといった色鮮やかな南国の花々。屋根の上のシーサーやなんくるないさーの島人の笑顔に旅人はほっこりと癒しを貰います。いつも訪れる人を優しく迎え入れてくれる沖縄ですが、沖縄が我が国において唯一地上戦が繰り広げられた地であることも忘れてはなりません。

様々な人々によって、様々な角度から語られることの多い沖縄戦ですが、最大にして最悪の特徴は軍人ではなく住民たちが最も大きな犠牲となったということ。沖縄県の資料によれば、この沖縄戦によって亡くなった人の数は、アメリカ軍12520人、沖縄出身者を含む日本軍約94136人、そして沖縄の住民94000人だといわれています。沖縄県人の4人にひとりが亡くなったと言われる沖縄戦。人類史上最悪のこの戦争の傷跡は今なお深く、生き残った人々も多くを語りたがりません。
gama

南国の植物に覆われる中、口を開けるガマ(自然洞窟)の入り口。沖縄戦ではこのガマが住民たちの避難場所や軍の基地となり、今でも戦跡としてその跡を見ることができます。

毎年6月23日は沖縄戦で亡くなった戦没者の霊を慰めて平和を祈る「慰霊の日」として、摩文仁の平和記念公園で行なわれる沖縄全戦没者追悼式をはじめとし、沖縄県内に数多くある慰霊塔でも一斉に慰霊祭が行なわれています。同じ過ちを二度と繰り返さないようにとの強い気持ちから、自らの体験を話し後世に伝える活動をしている方々も少なくありません。当時を記録した貴重な資料が展示されている資料館もあるので、訪れる観光客も少なからず沖縄戦について学ぶことができます。修学旅行や沖縄観光の中で一度くらいは「ひめゆりの塔」や「平和祈念公園」に代表される沖縄の戦跡を訪れた経験がある人も多いと思います。今回は、沖縄の戦跡の話をしましょう。

沖縄本島南部の戦跡

himeyuri

沖縄の戦跡の代名詞ともいえるひめゆりの塔。ひめゆりの悲劇はよく知られるところですが、米兵にして“ありったけの地獄を極めた”といわしめた沖縄戦の、ほんのごく一部の出来事であることを忘れてはなりませんね。

沖縄戦で前線となり住民を巻き込んでの大激戦地となった本島南部は、沖縄戦にまつわる戦跡が多く点在します。距離的に広大な範囲に広がっているわけではないのですが、なんせ数が多いのと、また戦争資料をじっくり見るためには想像以上に精神力を要するので、その全部を一日で見てまわるのは厳しいでしょう。予め、自分で見たいポイントをピックアップし、おおよそのルートを立てておくとよいかもしれません。中には調べてもおおよその場所しかわからず、辿り着くのに時間を要する場所もありますし、またガマ(戦時中防空壕として使われていた自然洞窟)に入る場合、軍手や懐中電灯の用意も必要です。レンタカーまたはチャータータクシーの利用が便利ですが、「ひめゆりの塔」や「平和祈念公園」といった代表的な戦跡であれば那覇からのバス利用でも簡単に行くことができます。

■ ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館
himeyuri

ひめゆり達が務めた第三壕の真上に建つひめゆりの塔は、今でも献花が絶えません。

沖縄戦で学徒ながら看護要員として動員され命を失った多くのひめゆりの少女たちの魂を祀ったひめゆりの塔。ひめゆり部隊240人(生徒222名、教師18名)のうち、亡くなったのは136人(生徒123名、教師13名)。前線での任務を余儀なくなれた少女たちの悲劇は映画にもなりよく知られていますが、事実は私たちの想像を遥かに超えた地獄と言えるでしょう。ひめゆり平和祈念資料館では、戦場に残された品々や、米軍のフィルム、生存者の証言などによる展示でひめゆり学徒隊の辿った沖縄戦の実相を知ることができます。ひめゆりの塔は、実際に彼女たちが沖縄戦末期に過ごした伊原第三外科壕の上に建てられています。彼女たちの悲劇は沖縄戦の悲劇のほんの一部にしか過ぎませんが、沖縄戦を知る導入として一度はこの資料館を訪れて欲しいものです。
住所:沖縄県糸満市伊原671−1
TEL:098-997-2100

■ 伊原第一外科壕
ひめゆりの塔からほど近い場所にある伊原第一外科豪は、観光バスとお土産物屋がひしめくひめゆりの塔とは対照的に、ひっそりとサトウキビ畑の先に無言で佇む壕です。ここは第三外科壕と同じようにひめゆりの少女たちが配属されそしてその命を落とした場所です。ひめゆりの塔に参拝した際には、伊原第一外科壕にもぜひ足を運んでみてください。
住所:沖縄県糸満市伊原 ひめゆりの塔より国道331をわずかに西へ向い、海側へ入った辺り

※しらゆり部隊の少女たちがその最期を遂げたのは、多くはひめゆりの塔がある第三外科壕でもこの第一外科壕でもなく、解散命令が出され戦場の中に放りだされた少女たちが行き場もなく逃れ追いつめられた荒崎海岸であったと言われています。

■魂魄の塔
konpaku

沖縄の人々の思いを背負った魂魄の塔。魂魄とは浮遊霊を慰める意味だと言います。

沖縄戦で亡くなった多くの人々に捧げる沖縄県の慰霊塔。沖縄県内には各所に多くの慰霊塔があり、各都道府県のものもあるのですが、沖縄県としての慰霊塔はここ平和創造の森公園に入る道の入り口にある鎮魂の塔だけです。素朴な、他の慰霊塔と比べても非常に質素なこの鎮魂の塔には、ただ一言「魂魄」とだけ刻まれています。空から、陸から、海からの攻撃を受け、追いつめられた住民たちが倒れた地で、祀られる犠牲者の数は35000人と言われ、毎年6月23日の慰霊の日には多くの県民が参拝しています。ダライ・ラマ氏も来沖の際、この塔を訪れ戦没者に祈りを捧げています。
住所:沖縄県糸満市米須 平和創造の森公園入り口付近

■白梅の塔
shiraume

糸満市国吉、国道54号からはずれてひっそりと佇む白梅の塔。左後方には彼女たちの納骨堂、塔の手前には無名の戦没者の遺骨が収められた萬魂之塔があります。

gou

白梅の少女たちが自決した壕の中から外の光りを見上げた図。壕の中の暗さがどれだけのもので、外の光の目映さを痛感します。

映画化され全国的にその名が知られることとなったひめゆりの少女たちばかりが取り上げられますが、沖縄戦での学徒少女たちの悲劇はひめゆりだけではありません。同じように学徒として前線にかり出された県立第二高等女学校の白梅部隊の少女たちもまた、多くは非業の最期を迎えました。白梅部隊の最も多くの犠牲者が出た国吉の地に慰霊塔が建てられています。慰霊塔の横には白梅の少女たちが最期自決をした壕もあります。ひめゆりと白梅部隊の他にも、なごらん、でいご、すいせん、せきとくの学徒部隊があり、実に多くの少女たちが犠牲になったことがわかります。
住所:沖縄県糸満市国吉

■ 平和祈念公園
heiwa

沖縄の戦跡としては大変によく知られる、摩文仁の丘に建つ恒久平和を祈念する公園。修学旅行や観光コースにもなっていますが、隅々まで見てまわるのはけっこう時間を要します。

沖縄戦終焉の地である摩文仁の丘。険しく美しい海岸線を臨む高台にあるこの丘は二度と同じ過ちを繰り返すことのないようにという平和への願いをこめられて国定公園となっています。摩文仁の丘には各県の慰霊碑が建ち並び、園内には「沖縄県立平和資料館」「沖縄平和祈念堂」「平和礎」等があります。
住所:沖縄県糸満市字摩文仁577
TEL:098-997-2765

● 沖縄県立平和資料館
heiwasiryoukan

沖縄戦を知るための貴重な資料が多く展示された資料館。平和祈念公園を訪れたら、ぜひ資料館も訪れて欲しい。 写真提供:OCVB

全世界の恒久平和を祈念して、沖縄の人々の戦争体験を集結した資料館。住民の視点でとらえた沖縄戦を展示理念として、沖縄戦に関わる様々な資料や、沖縄戦体験者の証言が展示され、沖縄戦の実相を見ることができます。
住所:沖縄県糸満市摩文仁614-1
TEL:098-997-3844

● 沖縄平和祈念堂
平和祈念公園に入るとすぐに目につく、真っ白な空へ伸びるような形の世界平和を訴えるモニュメント。

● 平和の礎
ishizue

戦没者への参拝に多くの人が訪れる平和の礎。写真提供:OCVB

沖縄戦終結50周年を祈念して1995年6月23日に建てられた沖縄戦で亡くなった国籍を問わない23万人余の名前が刻まれる、世界の恒久平和を祈念する礎。





 

● 摩文仁の丘慰霊塔

沖縄戦の終焉を迎えたこの丘は現在「国立沖縄戦没者墓苑」として、沖縄戦によって命を落とした各県慰霊碑が並びます。整然と並ぶ各県の慰霊碑から少し外れて、米軍に占領された読谷飛行時に特攻出撃した義烈空挺隊の慰霊碑である「義烈」や、ひめゆり部隊と同じように戦闘に加わることを余儀なくされた沖縄師範学校男子部によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑「師範健児の塔」、そして摩文仁の丘を最期の地とした「第32軍司令壕跡」など、沖縄戦最期に地であるがゆえの様々な戦跡がある場所です。

■ 喜屋武岬
kyan

晴れた日、喜屋武岬から眺める海の青さは素晴らしく美しく、戦争を知らない世代にとって沖縄戦でこの地が血の海と化したとは想像し難いでしょう。

沖縄本島のほぼ最南に位置する喜屋武岬は、沖縄戦末期、多くの追いつめられた人々が崖から身を投げ命を絶った場所。海を眺める高台には、一万柱の遺骨を奉納した平和の塔が建っています。
住所:沖縄県糸満市字喜屋武

■ アブチラガマ
ガマとは自然洞窟(鍾乳洞)のことで、本島南部は特に多くのガマがある場所です。沖縄戦では、このガマが軍の避難場所や住民たちにとって防空壕の役割を果し、戦況が激しくなると野戦病院としても利用されています。玉城村糸数のアブラチガマは全長が270mにもおよぶ大きなガマで、沖縄戦末期は南風原陸軍病院の分室になっていました。負傷して亡くなった大勢の人々に加え、軍人と民間人の間の闘争、米軍による火炎放射攻撃など、多くの悲劇が起こった場所です。現在、アブラチガマは中に入って歩くことができよう公開されています。ガマの中の闇の暗さや、外界と遮断された空気感など、ガマの内部を体験してみることで、多少なりとも沖縄戦のイメージを理解することができるかもしれません。ガイドを伴っての見学も可能なので、案内が欲しい人は下記まで連絡のこと。
住所:沖縄県島尻郡玉城村字糸数667-1
問合せ:南部観光総合案内センター 098-852-6608

■轟の壕(トゥルルシガマ)
糸満市伊敷にある轟の壕は、沖縄戦では住民の避難場所でした。証言によると、1000人以上の住民や日本兵がいたと言われています。当時の沖縄県知事、嶋田知事も一時この壕に滞在し、ここで自治体組織が解散になりました。轟の壕だけに限ったことではありませんが、沖縄戦における住民と軍人による惨事が繰り広げられた場所です。
住所:糸満市国道331号線から少し入ったところ
問合せ:糸満市観光協会 098-840-3100

ヌヌマチガマ・ガラピ壕
具志堅村新城にあるヌヌマチガマは、白梅部隊が動員された第24師団野戦病院の分室として使われていたガマです。全長500mの大きな洞窟で、西側をヌヌマチガマ、東側をガラピ壕と呼び、病院壕への入り口はヌヌマチガマの方。終戦間際、解散命令が下されると約800人の傷病兵が自決を強いられた場所で、白梅部隊の少女たちはここから前線の中へ行く宛もなく飛び出して行かねばなりませんでした。
住所:具志頭村新城

■旧海軍司令部壕
kaigun

当時の様子がそのまま残された壕内。ここは参謀たちが会議を行なっていた本部の室内の様子。

那覇市内と南部を一望できる豊見城の高台にある、手堀りで作られた旧海軍の地下要塞。当時のまま司令室や作戦室などが残され、現在は、沖縄戦を知る戦跡として併設された資料館と共に一般公開されています。太田実司令官以下4000人の将兵が壮絶な死を遂げた場所と言われ、資料館では太田実司令官の人柄を偲ばせる直筆の手紙なども展示されています。
住所:沖縄県豊見城市豊見城236
TEL :098-850-4055

■南風原陸軍病院壕跡
南風原に黄金森という小高い丘があり、ここに掘られた30余の壕が南風原陸軍病院壕と呼ばれる野戦病院で、ひめゆり部隊が最初に動員された病院としても知られます。戦火が激しくなり、第32軍司令部が摩文仁への撤退を決定すると同時に、この陸軍病院に撤去命令が下された際、置き去りにされた重傷患者には自決が強要され、碑には「重傷患者二千余名自決之地」と記されていますが、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。

2007年より新たに整備された20号壕が見学可能になっています。完全予約制。南風原文化センターでは陸軍病院壕の再現や南風原の戦争遺跡の展示を見学することができます。
南風原町立南風原文化センター(水曜日は定例休館日)
住所:沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武257
TEL:098-889-7399   

■対馬丸記念館
1944年、沖縄からの疎開者を乗せた対馬丸が米軍の攻撃を受け乗船者1800名中学童775名を含む1418名が帰らぬ人となった事件がありました。当時、大勢の幼い子供たちが亡くなったにもかかわらず、この対馬丸沈没事件は箝口令がしかれ、事実を話すことが禁じられました。また事件の後、いよいよ日本が沖縄の地上戦へと突き進んでいく中、事実が明らかにされたのは戦後しばらくたってからのことです。戦争という大人の利己的な理由によって、大勢の子供の命を奪ってしまったこの対馬丸事件は、次の世代に伝えていかなくてはならない沖縄戦の出来事です。記念館では、対馬丸の子供たちの視点から資料や証言がまとめられ、小学生の子供でも理解できるよう展示に工夫がされています。
住所:沖縄県那覇市若狭1-25-37
TEL:098-941-3515

■旧第32軍司令部壕
首里にある旧日本軍第32軍司令部壕の入り口。中に入ることはできませんが、その入り口部分のみ覗くことができます。場所は、首里の守礼門から城内に入らずに、円鑑池の方へ行った辺り。案内表示も何もなく、草木に埋もれるようただひっそりと佇んでいますが、観光客で賑わう首里の一角にこんな戦跡があることに驚くでしょう。
nanbu

国道や農道の脇や、海岸、林の中など、至るところに戦跡が散らばる沖縄。観光途中に碑を見かけたら、足を止めてこの戦争で亡くなった人々へ祈りを捧げてみて欲しい。

先に述べたよう、沖縄本島南部にはたくさんの戦跡があります。沖縄戦においてその全部が前線と仮したことから、南部全体が戦跡といっても過言ではありません。いえ、南部だけでなく、沖縄本島は北部の一部を除くそのほとんどが戦跡なのです。現在、人の手によって整備され戦跡として公開されているところはほんの一部です。

後半では、本島中部や他の地域の戦跡をご紹介します。
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。