女として「所有されること」がゴールの文化
現在私の住む町にはイスラム女性がたくさんいる。ある猛暑の夏の日、駅前の大通りをピカピカ輝く高級オープンカーが疾走し、街ゆく人々の視線を釘付けにしていた。いかにもマネーとパワーを感じさせる浅黒い体躯にサングラス、白いシャツの胸を開けた中東の男、助手席にはそんなに暑い日だと言うのに全身を黒いブルカに包み、目だけを出した女性が座っていた。まっすぐに座った堂々と気品のあるたたずまい、ビロードのような濃く長いまつげ、美しく化粧されたその眼差しだけで、その女性の美しさは充分に伝わって来た。「あぁ、あの女の人はああやって金持ちの男のオープンカーの助手席で、街ゆく大衆に見せびらかされてもなお、ブルカを全身にまとっていなければならないのだ」と思った。美しい女を手に入れ、他の男を煽情しないように真っ黒な袋を被せ、高級車の助手席に乗せて、男は気持ちよく風を浴びて走り抜ける。なんというエゴだろう、と私には思えた。だが明らかに、あのオープンカーの二人は彼らの文化の勝ち組同士なのだ。数多の女の中で優れている結果として、所有されることがゴールとなる、そういう文化もまた、依然、存在する。