スーパー、商店街が共存している街ほど物価が安く、住みやすい
その街の暮らしやすさを考える上で、商店街の有無は大きな意味を持つ。スーパーやコンビニエンスストアがあれば、生活には支障がないと思う人もいるだろうが、商店街は街のコミュニケ―ション、活性化の要。競争があるほうが、物価が安くなるというメリットもある。
下町の商店街が
低地にある2つの理由
かつての都心から下町エリアの川の多くは埋め立てられたり、高速の下の見えない場所に追いやられたりと存在が分からなくなっている
さて、その商店街だが、東京の下町など歴史の古い街の商店街ほど低地にあるケースが多い。これには大きく2つの理由が挙げられる。ひとつは江戸時代の物流の中心は水運だったということである。
合羽橋道具街には現在河童の像が建てられている。いわれについては諸説があるが、川、水に縁があることだけは間違いない
現在も山手線の上野から神田の東側には秋葉原の電気街、合羽橋の道具街、田原町から稲荷町にかけての家具、仏具街など、いくつもの問屋街が集中しているが、この地域は隅田川に近く、当時は掘割が縦横に巡らされていたエリアである。その水運を利用、掘割周辺に作られたのが現在の問屋街の素地で、17世紀末くらいに生まれ、その後、幕末から明治、大正にかけて発展、現在に至ったと言われている。今では神田川、隅田川しか残されていないため、ベニスにも例えられたという当時の姿を想像することは難しいが、たとえば、合羽橋道具街は17世紀中ごろに開削された新堀川沿いに作られた問屋街。大正12年に暗渠となったが、橋という地名から川との関わりが想像できるというものである。
加賀藩前田家の屋敷跡が現在の東京大学。ここが本郷台地という高台であることを考えると、やはり、昔から偉い人は高台が好きだったわけである
もうひとつの理由は江戸時代の居住区分である。首都圏都心部の地割の大半は江戸から受け継がれたものである。江戸時代は当時の市街地の7割が武家地で残りが寺社地、町人地であったといわれ、人口に比して非常に狭いエリアに庶民が住んでいた。そして、町人地は総じて低地に、大名地、寺社地のかなりの部分が高台に割り当てられている。
明治以降、宅地が分譲されるようになった時のキャッチフレーズの大半が「高燥で健康的な」「多摩川を望む高台」などという言葉であったことを考えると、江戸時代に庶民が住んでいた場所は湿っぽく、あまり健康的でなかったのだろう。時代劇などで登場する長屋は掘割沿いの袋小路になっていて、一番奥に共用のトイレ、井戸があるスタイルが多いが、これはほぼその通りであったと思われる。
といっても、逆に武家地がすべて高台であったわけではない。私がお稽古に通っている茶道の流派は忠臣蔵で赤穂城を受け取りに行く役をした脇坂淡路守という人に縁があるが、この人の屋敷は汐留にあった。仙台伊達藩の隣である。そして、汐留は今も昔も低地。武家屋敷があった=高台と考えるのは早計というわけである。
品川神社からかつての品川湾方面。現在京急線が走っているちょっと先までが海だった
ちょっと脱線したが、低地と高台、商店街とお屋敷という対比で分かりやすいのは東海道の品川宿あたりではないかと思う。東海道最初の宿場品川は当時、海辺を走っており、街道沿いには昔も今も商店街がある。そして、その商店街から山側に向かった辺りが御殿山である。江戸時代後期にお台場を作るためなどに削られてしまったため、現在の御殿山はさほどに山には見えないが、かつては江戸湾を見下ろす景勝の地で、桜の名所。花の下で海を見るという贅沢な楽しみ方ができた場所である。
また、武蔵野台地上にある上野の寛永寺や国立西洋美術館などのある高台エリアと東京低地に位置する御徒町のアメ横エリアも、高台に寺社、低地に庶民の暮らす街という構図が分かりやすく見える場所である。
寺社やお屋敷の間を抜けるように続くメリーロード高輪。歴史を感じさせる店舗、建物も残されている
ただ、全部が全部低地かというと、そうでもない場所もある。それは商店街がそもそも人の通る道沿いにできるという性格から、その道が尾根を辿っている場合には商店街も尾根沿いになるためである。たとえば、港区にあるメリーロード高輪は奥州街道(江戸時代初期には東海道)沿いに作られた商店街で、通りの東西はいずれも坂。商店街の中心部は高台にある。街道沿いには数多くの商店街が作られているが、その場合には高低よりも他の街との位置関係や利便性で商店街が生まれたわけである。また、寺社の門前などに作られる商店街も、地形よりは寺社との位置関係で生まれており、寺社に比べれば間違いなく低地に当たるが、それほどに低い場所というわけでもないことがある。
百軒店の一角にある、関東大震災後に移築された神社。周辺はホテル、飲食店などに埋め尽くされている
とはいえ、高台の商店街は非常に少なく、あまり成功しないといわれる。モノを運ぶのも、行くのも面倒だからだろうか。良い例が渋谷の百軒店である。ここは明治になって旧華族の屋敷跡地を利用して計画的に作られたエリアで、行ってみると、きれいに四角く道が配されている。開発時には中央に劇場やら映画館があり、その周辺に商店街があったというが、客も店も次第に低地に戻って行ってしまい、現在は風俗店が目立つ、ちょっと女性には行きにくい場所になっている。ただ、ここにはライオンという今では珍しい、古い建物で有名な名曲喫茶があり、ここだけは一回入ってみる価値があると思う。
続いて
昭和初期の商店街の様子などを見ていこう。