東の低地と西の台地、
地形と歴史が赤羽を作った
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駅の東側、西側で異なる表情を持つ街、赤羽。高架下にはショッピング街アルカードがある |
赤羽という街を知る上でポイントになるのは地形と歴史です。もちろん、これは赤羽だけでなく、他の街でもそうなのですが、こと赤羽に関しては地形、歴史が今の街のすべてを形作っているといえるのです。
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新幹線の線路上にある八幡神社から駅方向を見たところ。右側(駅西側)が高く、左側(駅東側)が低くなっていることが分かる |
さて、まずは地形です。都心方面から埼京線あるいは京浜東北線などで赤羽に近づくと、線路の左右で土地の高さが異なることがお分かりになると思います。進行方向左側、つまり西側は所々に高い場所があり、駅近くには広大な高台もあるのに対し、右の東側は土地が低くなっているのです。この高低差ができたのはかなり古く、第4氷河期にまで遡ります。元々海の底だった赤羽は水面が下がった第4氷河期に陸地になるのですが、この時代に今の荒川、利根川、入間川の3河川の元となる古東京川は赤羽駅の東側を流れており、今の線路から荒川までの地域を侵食、低地とします。古東京川は西側の台地の所々にも谷を刻んでおり、そのため、駅の西側は谷と高台が入り混じる地形となっているのです。
赤羽周辺の概念図
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駅、線路を挟んで東西がどうなっているかを簡単にまとめた図。右の東側が低地で、左が高台だ |
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荒川にかかる新荒川大橋。このあたりに渡し場があったらしい。周辺は桜の名所でもある |
街として開けたのは東側が先です。それは岩淵町に渡し場があったためで、川口方面に行く人はここを通らざるを得なかったのです。今のこのあたりには寺社や今では23区唯一の造り酒屋がありますが、それは歴史のある街だからです。そしてその状態は江戸から明治18年に赤羽駅ができるまで変わっていません。しかし、駅の登場は街の勢力図を大きく変えます。駅のある赤羽エリアが格段に発展し始めたのです。
赤羽を大きくしたのは陸軍だった、
その跡地は現在、団地や競技場などに
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かつて陸軍師団があったことから師団坂と名づけられた通り。駅から急な上り坂になっている |
それに拍車を掛けたのが軍です。明治20年の陸軍第一師団工兵第一歩大隊(すごい名称です)が現在星美学園のある、線路沿いの土地に移転したのを皮切りに、続々と軍の施設が駅西側の高台に移転してきます。兵法では交通の便のよい、食料や備品調達の容易な高台に陣を構えるのが大事だそうですから、赤羽は絶好のロケーションだったのでしょう。また、東側に比べれば、あまり開かれておらず、広大な土地を調達しやすかったのも理由です。そして、軍の施設は年々増加、最盛期には兵器庫や陸軍火薬庫、射撃訓練場など10箇所以上の軍用施設があったといいます。往時は軍都と呼ばれていたと言いますが、それにふさわしい土地だったのです。
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80m弱の路地に飲食店がひしめくOK横丁。手頃に飲食できる |
当然、駅周辺はおおいに賑わいます。台地にたくさんの軍人が集まったことで、家族その他の関係者も集まるようになり、その人たちを相手とする商売は増え、数年前の寒村は全国的に陸軍の町として知られるようになっていきます。飲食店街の路地や猥雑さもある風情などはこの時代に醸成されたのでしょう。周辺には工場なども多かったため、銭湯や夜勤明けから飲食ができる店も多く、今も街のそこここにはそうした名残りがあります。
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赤羽台団地入り口に残るスターハウス。昭和30年代の団地のシンボルともいうべき形状の建物だ |
そして、戦後、それらのまとまった地域は団地や学校、公園、国立西が丘サッカー場などに生まれ変わります。これが明治から戦前であったなら、大名の屋敷が高級住宅地に生まれ変わったように、赤羽の高台にもお屋敷街が生まれたことでしょうが、時代は戦後でした。そのため、大名の屋敷に匹敵するような広大な土地は公共性の高い用途に転用されたのです。
次のページでは現在の赤羽の様子を見ていきましょう。