(2006.06.15)

久しぶりの本格的自民党政権と期待され、構造改革の先駆けともいえる行財政改革に取り組んだ橋本龍太郎内閣。しかし、その理想は有権者に受け入れられず、参院選で惨敗、橋本首相は無惨な退陣劇を演じることになるのでした。

1ページ目 【橋本構造改革はなぜ「挫折」したのか】
2ページ目 【経世会第一派閥へ復帰、新進党解党】
3ページ目 【金融不安と橋本退陣、小渕=野中体制へ】

【橋本構造改革はなぜ「挫折」したのか】

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「橋本構造改革路線」はなぜ挫折したか

橋本政権が打ち出した行財政改革など一連の改革は、まさに「構造改革」であり、その任期の短さを考えても、大きな成果を上げていると評価できるでしょう。

とくに中央省庁を1府22省庁から1府12省庁に再編したことや、独立行政法人の設置への方向性を示したこと、さらには「聖域」だった郵政事業もしっかり再検討。そして、首相のリーダーシップ向上のための内閣府の設置。

これらの下地がなければ、小泉構造改革もうまくいかなかったかもしれません。それだけの大事業なのですが、小泉改革に比べ、橋本改革の評判は今一つ。結局、参院選での屈辱的敗北によって彼は退陣してしまうのです。

橋本龍太郎のパーソナリティと改革

「景気が悪化しているのに行政改革ばかりやっていた」という批判もあります。確かに、橋本政権が景気動向を読み違えていたのは事実です。

橋本政権が誕生したころ、景気は若干回復傾向にありました。しかしその背後で不良債権問題は先送りされていたのでした。そして、必然のようにその後不良債権問題は火を吹き、金融不安から景気は急速に悪化、98年成長率は戦後2番目のマイナスとなってしまったのです。

この急激な悪化に橋本政権が機敏に対応できなかったのが、参院選の大敗、そして退陣につながったことは確かなことでしょう。

しかし、小泉政権は景気が悪化したときも政権を維持し続けました。橋本龍太郎という人は、小泉純一郎という人に比べ、「改革の首相」というイメージを、強く植え付けることができなかった……。

彼の「くそまじめ」な性格が、災いしたのでしょうか。

もし、景気が悪化しても、「痛みをともなう改革」ということを平気で言え、支持を取り付けることが橋本にできるようなことがあれば、あるいは参院選の大敗北はなかったかもしれません。

「普通の永田町の住人」による「普通ではない大改革」は、「普通ではない事態」にまったく対処できず、いきなり挫折を強いられたということなのでしょうか。

橋本首相のお株を奪った2人の政治家

事実、橋本政権になって、2人の政治家が、橋本首相ができないようなことをやったり言ってのけたりして、世間の注目をひきました。

彼ら……つまり、菅直人、小泉純一郎という「今までの常識にとらわれない政治家」たちが現れたことにより、橋本首相の「壮大な改革」は、国民の目からはすっかり「小手先の永田町的改革」に映ってしまうようになったのです。

第1次橋本内閣で厚生大臣に入閣した菅は、輸入血液製剤がもとで国内にHIV感染者を広めたという「薬害エイズ問題」を徹底的に追及しました。

厚生省がまったく認めようとしなかった国の責任について、菅は大臣としての地位をフル活用して真相究明にあたり、国の責任を立証した上で自ら謝罪しました。

「大臣はただ大臣室でふんぞりかえって官僚の言うことを聞くだけ」というイメージを打ち壊した菅への「改革者」としての好感度は増していきました。

第2次橋本内閣では小泉純一郎が厚生大臣になりました。彼はもともと、先の総裁選で橋本の唯一の対抗馬として立候補、しきりに「郵政民営化」を主張していた人物でした。

そして彼もまた閣僚としての地位を利用して、橋本がすすめる行政改革で郵政民営化の道筋をつけることをさかんにアピールしました。彼は行政改革の中間報告が出た97年10月を好機として、民放テレビに相次いで出演、郵政民営化路線が撤回されれば閣僚を辞任するといいだしました。

ここで一気に郵政民営化議論が過熱し、小泉もまた「改革者」として、橋本に先んじたのでした。結局は郵政公社化で落ち着いたのですが、「改革を叫ぶ小泉、守る橋本」というイメージができてしまったことは、橋本にとっては痛恨だったと言えます。

第4派閥からのスタート、第1次橋本政権

さて、時間軸を戻しましょう。

96年初頭、社会党の村山富市首相に政権を譲られる形で発足した橋本内閣。しかし、当時はまだ「分裂」の影響もあって、基盤である経世会は第4派閥。しかも連立を組んでいた社会党や新党さきがけとの関係もあり、政権運営にはさまざまな気遣いが必要でした。

結局、蔵相には社会党の久保亘(わたる)が、厚相には新党さきがけの菅直人が就任。外相は宮沢派の池田行彦。官房長官で経世会の梶山静六は中曽根康弘元首相への配慮と考えられていましたし(梶山はやや中曽根系と思われていた)、官房副長官には中曽根派の与謝野馨が就任しました。

党三役は幹事長が事実上の宮沢派後継者加藤紘一。総務会長が三塚派の塩川正十郎、政調会長が中曽根派の山崎拓。

このような布陣で、橋本政権は、しかし、自民党久々の「本格政権」であるという人々の期待を背負って、帆を上げたのでした。

橋本政権のロケットスタート

橋本政権はまず住専問題に取り組みます。バブルの時代、土地投機への資金提供をしていた住宅金融専門会社、略して住専がのきなみ経営破たんし、その損失の処理が問題となっていたのでした。

橋本政権は6850億円の公費を使って住専処理の穴埋めをすることを決定。これに新進党は猛反発し、一時新進党はピケを張って国会を空転させます。

しかし、やがて世論は自民党批判から新進党批判に傾きます。いつまでそんなことをやっているのかと。旧態依然の国会運営に国民は飽き飽きしていたのです。こうして、住専問題は処理されました。

予算成立後には、アメリカとの間で沖縄・普天間飛行場の返還合意を取り付け。そしてアメリカ・クリントン大統領との間で「安保再定義」を行う日米共同宣言を発表。

この勢いに比べ、小沢一郎率いる新進党の勢いは、今一つでした。

歩み
「改革のトップランナー」としての印象を強く印象づけることができなかった橋本首相……