大正天皇の謎
大正天皇は側室の子供?天皇家の謎に迫る
なにかと噂はありながら、実像があまり知られていない大正天皇を中心に、父・明治天皇、子・昭和天皇との関連性を見ていきます。大正天皇の残したものとは何でしょうか。
<目次>
世襲君主制の危うさ
過去、子どもが1人もいなかった天皇は何人かいます。天皇家だけではありません。初めて関白になった藤原基通は養子でしたし、室町幕府の5代将軍足利義量(よしかず)は子どもを生まず19歳で亡くなり、将軍位はしばらく空位になりました。江戸幕府では、将軍家直系が絶えたときに備えて御三家というしくみを用意していました。そして江戸幕府開始から1世紀少しで直系は絶え、御三家から徳川吉宗が将軍に就いているのです。吉宗の直系の孫である家治には子がなく、傍系の一橋家斉が継ぎます。彼は50人あまりの子を残しますが、それでも直系の孫である13代将軍家定の子はなく、跡継ぎをめぐっていわゆる「安政の大獄」が起こっているのです。
世襲君主制は、血を継承していくという危うさを常に秘めています。諸外国の王室と姻戚関係を結んで安定を保ったのがヨーロッパのシステムでしたが、アジアではそうはいかず、一夫多妻制でその安定を保とうとしました。それでも、「血が絶える」危機は存在していましたし、そのための安全装置もまた必要とされていたのでした。
明治天皇・大正天皇は「側室の子」
さて、このような伝統から、明治天皇は正式な皇后(昭憲皇太后)のほかに、「典待(または権典侍)」という側室を持っていました。皇后との間に子は生まれませんでした。複数の側室が子を産み、男児も生まれましたが、結局生き残ったのは後の大正天皇となる嘉仁(よしひと)親王だけでした。側室制度は、明治時代までは普通のことだったわけです。実際、明治天皇自体、側室の子ですし、その父・孝明天皇もそうです。
ただ、明治天皇の生母は中山慶子(よしこ)といい、幕末に権大納言であった有力な公家、中山忠能(ただやす)の娘でした。中山忠能は岩倉具視とともに王政復古の中心人物となるなど活躍したため、生母慶子もまたしばしば重要儀式などの表舞台に登場しています。
しかし、大正天皇の生母、柳原愛子(なるこ)が表舞台に出てくることはありません。彼女もまた華族の出身であり、それなりの地位を得ていますが、少なくとも明治天皇が崩御するまでは皇族としての地位もなく、わりと日の当たらない存在でした。公式な明治天皇の伝記(『明治天皇紀』)にも、その記載は極端に少ないのです。
(もっとも、『明治天皇紀』は公開されていますが、大正天皇の公式な伝記は存在するとされるものの、宮内庁は公開を差し控えています。公開されれば、柳原愛子についての評価も変わるかもしれません)
生母・柳原愛子から完全に隔離された若き大正天皇
大正天皇、つまり嘉仁親王は、生後まもなく柳原愛子の手から離され、中山忠能のもとに預けられることになったのでした。これは宮中における伝統的な制度でした。明治天皇も生後すぐ里子に出されましたが、その先は嘉仁親王と同じ中山忠能の家でした。そして明治天皇は4歳には宮中に戻り、生母慶子の教育を受けています。しかし、嘉仁親王は6歳まで中山家にとどまり、その後も生母ではなく皇后の子として教育を受けているのです。嘉仁親王自身も、生母が柳原愛子であることを知るのは幼少期をすぎてからになるのです。この違いはどこからくるのでしょうか。
「近代絶対国家君主」に求められたもの
1つには、「天皇権威の高揚」があげられるでしょう。明治天皇が生まれた江戸時代末期、宮中では日本が開国問題に瀕していることを全く知らず、庶民の中にも天皇の存在を知っているものは、実はまれでした。そういう意味で江戸時代までの天皇家は、幕府の規制さえ守れば、充実したプライベートを送ることができた環境でした。
しかし、大正天皇が生まれたとき、日本は天皇を中心とする絶対君主国家として成長する途上でした。天皇となるべき嘉仁親王には国家元首、さらには「現人神」としての絶大な権威が必要とされていました。
そのため、「将来の天皇が皇后陛下のお子さまでない」というのは権威に関わる問題でしたし、将来の絶対君主としての有識者による教育も幼少から必要とされていました。生母柳原愛子は(彼女自身、詩歌や文学には詳しかったようですが)実子・嘉仁親王の教育に携わることは、決して許されませんでした。
2つめは、よくいわれる大正天皇=嘉仁親王の健康問題です。出生時から、その健康が大きく危ぶまれていたことが記録されています。その結果、有力華族である中山家で大切に育てられ、満を持して宮中に送られたのではないかと推察できます。しかし、これからあとも健康問題はついてまわります。幾度も重病になった結局、嘉仁親王は学習院を卒業することができずに学校を去っています。
大正天皇は本当に「知的障害」だったのか?
とはいえ、よくいわれるように、大正天皇=嘉仁親王はまったく病弱で、しかも精神的にも問題があった、といい切ることはできません。確かに皇太子の健康状態はよくはありませんでしたが、宮中保守派たちによる過度な教育の負担を減らせば元気になると考えた人たちもいました。その中心となったのが皇族である有栖川宮・威仁(たけひと)親王でした。有栖川宮は皇太子となった嘉仁親王の後見役に任ぜられると、ほどなくして皇太子の地方巡幸(皇族が皇居をでること。天皇の場合は行幸ということも)を計画、実行します。
ちょうど、20歳になった皇太子は華族出身の九条節子(のちの貞明皇后)と結婚していたときでした。このお披露目もかねて、有栖川宮は皇太子の地方巡幸を計画、実行したのでした。そしてこの一連の地方巡幸で見せた皇太子の姿は、のちにいわれるような「病弱」「神経衰弱」といったイメージからは程遠いものだったのです。
「気さくでよく喋る」大正天皇という「実像」
皇太子・嘉仁親王は、今の皇族がそうするように、巡幸先で自然に、自発的に周りの人々に声をかけました。たとえば病院では、いきなり重病の患者に声をかけ、病状について尋ねたり(あまりに意外なことに患者は言葉を発することができなかったといいます)、移動中に同乗した福岡県知事に「たばこは好きか」などと聞いたりしています。このことが当時どれほどインパクトがあったのでしょう。
明治天皇は、重臣やごく親しい人物にしか肉声を発したことがありません。昭和天皇の弟である秩父宮でさえも、明治天皇の肉声は生涯聞くことがなかったと述懐しています。それを考えると、この皇太子の気さくな言動は、まさに画期的なできごとであったわけです。今、お茶会で有名人などが天皇陛下にお声をかけられるのとは比べ物にならない衝撃があったといえるでしょう。
ちなみにこれは天皇になってからも変わらず、岡山県知事には「貧民の状況はどうか」と率直に質問し、お声をかけられた知事が感激して急いでレポートを作ったという話も残っています。
また、後の政党内閣を樹立で有名な「平民宰相」原敬とは結構よく話をする間柄だったようです。大正天皇は愛煙家だったようで、たばこの話を原とよくしていたようなので、『大正天皇』(朝日出版社)の筆者・原武史氏は、2人は喫煙しながら話し合える仲だっただろうと推察しています。天皇の前でたばこを吸うというのはなんともこの時代としてはすごい話です。
「天皇としての権威」よりも「普通の人生」を欲しがっていた?
さて、しかしこれは大正天皇のいわゆる「奇行」なのではないか、という話がないわけでもありません。天皇としてはおかしいぞ、と。しかし、大正天皇はこのあたりの一部始終を直筆で丁寧に日記として記しています。それは公開されていて、それを見る限りでは、大正天皇が病弱だからといって、決して精神的に君主として「致命的ななにか」が欠落していたとは考えられません(前掲『大正天皇』など参照、ちなみに公開されているのは皇太子の家庭教師的存在の人物に皇太子が「提出」し、宮内庁にはないため)。そして彼はしばらく健康で充実した時期を迎えます。後の昭和天皇をはじめ、3男子を節子妃との間にもうけるからです。彼らもまた一時里子に出されますが、比較的早く宮中に戻り、皇太子は皇子に多くの愛情を注ぎます。
皇太子と2皇子が節子妃と仲良く並んで映っている写真があります。ここに掲載できないのが残念ですが、「現人神」の天皇(となるべき人物)のイメージとは想像できない、現代風の皇族像を、その写真から見て取ることができます。彼は、父・明治天皇とは違って、超越した権威を持つよりも、1人の人間として、普通の人生を歩みたかったのかもしれません。
このように「家庭」を大事にしようとした皇太子は側室制度も事実上廃止します。3人の男児を産んだことによって、それに異議を唱える声は少なかったようです。
「普通の人」大正天皇への反発
しかし、皇太子が強力な絶対君主としての振る舞いを「拒否」するような姿勢をみせたことは、大きな波紋を呼びました。それについては、20代になって急速に政治や軍事に関心を示しはじめ、絶対君主としての「雲の上的な」振る舞いを意識的に行っていった明治天皇が、まっ先に不満を漏らしています。それは明治天皇の重臣たちもそうでした。
そのため、明治天皇の死後、皇太子が天皇として即位すると、重臣たちはその「資質」を疑い、君主としての権限を「統制」しようと図ります。それがまず、日本で最大の首相任期を務めた桂太郎の内大臣(内閣の外にあって、天皇の諮問に答える大臣)への就任でした。
内大臣というのはなるべく政局に関わらない無難な人物が勤めるべきなのですが(そうしないと宮中に政治責任が持ち込まれるため)、あえて政界トップの1人、桂が内大臣に就任したのです。これを強力に押し進めたのが伊藤博文暗殺後の日本元老のトップ・山県有朋でした。桂は山県の後継者と見られていました。
もちろん薩摩閥を中心として(山県は長州閥)アンチ山県派は存在していたのですが、不思議とこのとき、反山県派も沈黙しています。彼らも黙認したのです。それだけ、大正天皇は重臣たちに「軽く」見られていたところがあったようです。その風潮が、勃興しつつあった政党政治家や、民衆にまで届かないわけはありません。こんななか起こったのが「第1次護憲運動」としても知られる「大正デモクラシー」の先がけ、大正政変でした。
天皇権威が「否定」された大正政変
「大正政変(第1次護憲運動)」は、「陸軍増強問題で失脚した政党より内閣・西園寺内閣が陸軍によって潰され、陸軍のトップ桂が首相に就任したため起こった、大正デモクラシーのさきがけ」的な事件といわれています。しかし、実際には、西園寺は辞任のとき桂を後継にするよう天皇に推薦しています。桂が失脚した原因は、西園寺率いる政友会との提携を拒否、「桂新党」結党に走ったため、政友会が犬養毅率いる国民党と連携し、大衆を煽って起こしたものだったのでした。
桂は、重臣(西園寺も含む)と協議し、大正天皇に「和解の御沙汰」を頂き、政局を乗り切ろうとします。しかし政党勢力は妥協しません。政友会の尾崎行雄は「天皇の御命令を盾にして政局を乗り切ろうとは何ごとか」と批判、大衆は大きく同調します。
明治時代には考えられなかった、「天皇による『和解の御沙汰』の権威」があっけなく否定されたのです。結果、桂は任命から2ヶ月あまりで総辞職せざるを得なかったのでした。首相の任命権は天皇にあるのが大日本帝国憲法における根幹制度の一つでした。そのため明治時代、天皇が任命した首相、内閣の存立が政党・大衆によって「まともに批判されて」失脚したことはありませんでした。
天皇権威の急速な失墜、「ご容体」との関係説の浮上
ここに至って、絶対であるはずの天皇の任命権、そしてその他の命令や意思までもが、わずか明治天皇の死後1年ほどで政党と大衆から否定されたのです。これは、大正天皇の「現人神としての権威」に関わることでした。結局この後、政治は原率いる政友会と桂新党系の同志会→憲政会の事実上の2大政党政治となり、それに山県をトップとする長州・陸軍閥、薩摩閥を中心とする海軍閥、その他の元老などが介入しごちゃごちゃに。原が最終的に勝利し首相となるまで、天皇を中心とする国家の求心力は急速に弱まっていきました。そして、それは大正天皇の「ご容体」にある、という考え方もまた急速に広まっていったのでした。
大正天皇病気悪化の為「退位」
そしてその間、大正天皇も急速に病気が悪化。趣味のビリヤードもできなくなり、勅語(天皇の言葉)の朗読もままらなず。そんな状況を、重臣たちは大正天皇が「深刻な脳病」であると判断しました。一方、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)は皇太子として始めてヨーロッパに外遊。これを通信技術の発達も手伝ってマス・メディアは逐一報道。その歓迎ぶりと「威風堂々」ぶりに、「皇太子を摂政にする」という案が浮上します。こうして1921年11月21日、宮内大臣・牧野伸顕は元老・松方正義とともに大正天皇に摂政設置を要請。『牧野伸顕日記』(中央公論社)によると天皇はただ「あーあー」というのみであった、といいます。これにて摂政設置が陛下にご承諾あいなり、となり、大正天皇は事実上「退位」、昭和天皇となる皇太子に事実上バトンタッチすることになったのでした。
4年後、大正天皇の病状は悪化し、1926年崩御。イギリス留学中の秩父宮以外が看取るなか、臨終の瞬間、天皇の手を握っていたのは、だれあろう、生母の柳原愛子だったのでした。「普通の人」が生母にその最後を看取ってもらいたかったのか、今となってはわかりません。ちなみに柳原愛子は大正天皇即位後「準皇族」扱いとなり、天皇の死去前に勲一等瑞宝章を授与。戦火が東京でも激しくなる1943年に死去しています。
側室制度の完全消滅
昭和天皇の皇后(香淳皇后)の間には、女児ばかりが誕生し、男子が生まれませんでした。そのため、宮中では再び「側室復活」を望むようになります。彼らの手によって、華族の子女などと昭和天皇との「デート」が何回かもたれているようです。内容はトランプ遊びなど(『昭和天皇』ハーバート・ビックス、講談社より)。しかし、昭和天皇も父帝の影響からか、側室制度には興味を示さないまま。そんなおり、「待望の男子」明仁親王(今の天皇陛下)が誕生し、側室問題は立ち消え。天皇の側室制度は、ここに消滅したのでした。
そして天皇は再びさまざまな人間の「道具」と化す
さて、若く聡明な昭和天皇の即位に、人々は大きく期待していました。しかし、一度失われた天皇の権威を戻すことは容易なことではありませんでした。軍部が台頭し、ナショナリズムが勃興するなか、皮肉にも天皇はまたしても、日本の歴史のなかで道具として扱われていきます。軍部はすべて天皇の権威で国家総動員体制を築きあげようとし、それはやがて政党や財閥の援助も得て、実行されていくのでした。
こうした構造に対抗しようとした「2・26事件」、その精神的支柱として後に逮捕、処刑された思想家・北一輝の考えた「天皇の元での社会の平等」という思想も、ある種、天皇は万民平等社会実現のための「道具」でした。
北の影響を受けた青年将校たちは、天皇の「大御心(おおみこころ)」を「邪魔している奸臣(悪い家臣)たち」、つまり世界恐慌からの経済回復に貢献した高橋是清や、海軍穏健派として尽力した斉藤実ら重臣を排除すべく、殺害します。
「股肱(ここう)の臣(君主にとって大事な臣下)」を殺された昭和天皇はこれに激怒し、青年将校らは武力鎮圧され、中心人物は処刑されます。この一人、磯辺浅一は、獄中での日記で「絶対君主である天皇陛下」にこのような思いをぶつけるに至ります。彼は「天皇に裏切られた」と思ったのでしょうか。
八月二八日 今の私は怒髪天をつくの怒にもえてゐます、私は今は、陛下を御叱り申し上げるところに迄、精神が高まりました。だから毎日朝から晩迄、陛下を御叱り申して居ります
天皇陛下 何と云う御失政でありますか、何と云うザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ(『日本政治史3』升味準乃輔著より引用)
「天皇の国家日本」を信じて死んでいった人たち
有名な『昭和天皇独白録』にあるように、昭和天皇が日米開戦を止めようとしてもクーデターなどが起こり無理だったのかどうか、本当のところは果たしてわかりません。……しかし、ヨーロッパを皇太子時代に視察し感銘を受けた昭和天皇が、軍部のおもちゃとなって開戦をすんなり認めてしまったのは事実です。そして、終戦の決断を下してもなお、「陛下の決断」の実行を阻止しようとした将校たちが玉音放送を中止しようと動いていた……明治天皇が持っていた大きな権威は、ここに至って、すでに完全に崩壊していたのでした。しかし、多くの人々が、軍部が「作り出した」天皇の権威に従わされ、天皇のために死ぬのだと教えられた。そして、彼らが「天皇陛下万歳」と叫んで玉砕したり、自決したりして、命を落としていった。このことは、忘れてはならないことです。
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