(2006.01.12)

イスラエル・シャロン首相の容態が連日ニュースになっています。彼は単なる首相ではなく、イスラエルの「国民的英雄」としてその支持を集めてきました。しかし同時にさまざまな非難をも浴びる人です。彼のこれまでを追ってみました。

1ページ目 【軍人として「国民的英雄」に上り詰め、そして右派政治家へ】
2ページ目 【今もなお国内外の議論の的……国防相シャロンのレバノン侵攻】
3ページ目 【21世紀になってつかんだ政権の座……超リアリズム的なその政策】

【軍人として「国民的英雄」に上り詰め、そして右派政治家へ】

シャロンとイスラエル建国

アリエル・シャロン首相は軍人として、その公的なキャリアを積み重ねていった人でした。それは、イスラエル独立、すなわち第1次中東戦争に最初から関わっていたことを意味します。

・1928年 テルアビブ近くのクファル・マルル村で出生
・1948年 イスラエル独立、第1次中東戦争 下士官として参戦
・1952年 除隊、予備役士官へ ヘブライ大学入学

彼は20歳にして下士官として軍隊を率いる「軍人」として活躍している、生粋の「軍人」でした。

すでに彼が生まれたころから、シオニズム運動がさかんになっていました。シオニズム運動とは、各国離ればなれになっていたユダヤ人のイスラエル帰還運動です。そしてこのころから、アラブ系パレスチナ人とユダヤ人の関係は悪化しつつありました。

そして彼は、イスラエル独立戦争、つまりイスラエルと周辺アラブ諸国との戦争である第1次中東戦争に参戦、激闘を繰り広げます(シャロンも重傷を負う)。

しかし、彼は終戦後(イスラエルの勝利)、政治家が強く軍が弱い状態に業を煮やし、軍をいったん抜けます。ただ、予備役として軍に籍は残していました。

「大きな戦果」で「英雄的将軍」の道を歩み始める

イスラエル地図1
斜線部分がヨルダン川西岸地区。当初は隣国ヨルダンが併合。
・1952年 「101部隊」の指揮官につく
・1953年 「101部隊」による「キビヤ村虐殺事件
・1955年 「101部隊」、部隊兵士の姉と恋人殺害の報復のためベドウィン族を襲撃、数人殺害したため停職処分に
・同年末、シリア、エジプト軍を相次いで襲撃、大きな戦果あげる

シャロンの率いた「101部隊」は、ゲリラ戦に対応するために組織された小規模な秘密部隊でした。そして彼は「大きな戦果」を次々にあげる指揮官として次第に名声を獲得していきます。

もっとも、その中には「過剰報復」ともいえる事件がたびたびありました。勝手な行動も目立ちました。国際的な非難もありました。しかし、彼の果敢な「戦果」は国内での支持を集め、「英雄的将軍」の地位の礎となります。

軍人としての「華々しい活動」とシャロンの葛藤

イスラエル地図2
イスラエルは第3次中東戦争で多くの占領地を得た。そのうち斜線部は今でもイスラエルの占領が続いている。
・1956年 第2次中東戦争(スエズ動乱)で空挺部隊を指揮、大きな損害のため以後後方部隊へ
・1964年 北部戦線司令部へ 少将へ昇進
・1967年 第3次中東戦争でエジプトと交戦し大勝
・1970年 ガザ地区でのゲリラ掃討(千人ほど殺害?)
・1973年 現役を退き、予備役へ

シャロンはその後も、割に独断で作戦を遂行していきました。そのため「成功」は華々しいものの、失敗、あるいは国際的非難を浴びるような行為が多く、軍の上層部とは折り合いが悪かったようです。

結局、彼はその軍を離れることになりました。

しかし、彼は70年ごろから、次第に政治に接近していくようになります。そして、当時イスラエル政権を支えていた左派ではなく、野党右派に接近していきます。

こうして、「国民的英雄」は政治家になっていくのです。

軍人から政治家へ

・1973年 右派勢力の一端、自由党に入党
・同年 第4次中東戦争、シャロンは予備役部隊を率いてエジプト侵攻 右派政党結集し新党リクードへ シャロン総選挙で議席を獲得するもリクードの政権奪取ならず、ほどなくシャロン議員辞職
・1976年 左派与党労働党ラビン内閣の特別顧問に就任
・1977年 総選挙、シャロンは新党「シュロムシオン」を率いて当選、リクードと合同し初のリクード政権であるベギン内閣の農相に就任 占領地への入植活動を積極的に支援

彼は当然のように、強硬にアラブ勢力との対決を主張する右派勢力に入り、今のイスラエル二大政党の1つリクードの結党に参加します。その間も彼は中東戦争で戦果をあげ、国民にアピールすることを欠かしませんでした。

特に第4次中東戦争ははじめてイスラエルがアラブに対し一時逆境に立たされた戦争だったので、シャロンのとった行動=エジプト侵攻は、またも無茶なところもあったのですが、国民に大きくアピールしました。

そして、彼はリクードに入るも、野党生活に嫌気がさし議員辞職。そしていきなり左派である労働党に接近。このあたり、彼のリアルなまでのリアリズム的政治姿勢が見て取れます。いや、是が非でも「戦争」に参加したかったのでしょうか。

そして新党を率い国会復帰。もっともいきなりリクードに戻るわけに行かなかったので、こうせざるを得なかったわけですが。そして選挙後、リクードと合流しますが、面白いのが農相に就いたこと。軍事のトップ、国防相ではなかったのです。

しかし、彼はその権限で占領地にたくさんのユダヤ人入植地を作り、パレスチナのイスラエル化を推進していきました。これも彼にとっては「軍事的作戦」だったのでしょうか。

そして彼は国防相に就任、アラファト率いるPLO(パレスチナ解放機構)と全面対決することになります。