2ページ目 【日露戦争で日本が得たもの、そして「世界」が得たものとは何だったのか】
3ページ目 【日露戦争「勝利」からわずか40年で日本が「破局」したのはなぜか】
【日露戦争「勝利」からわずか40年で日本が「破局」したのはなぜか】
「保護国化政策」から「韓国併合」へ
日露戦争後の韓国支配のあり方については、明治エリートの二大巨頭、伊藤博文と山県有朋の間で、意見が食い違っていました。伊藤は、なるべく列強などの他国を刺激しないよう、韓国を「保護国」として形だけは残す方針でいました。しかし山県らは軍部は韓国を完全植民地化、つまり併合しようとしていたわけです。
結局、韓国における義兵闘争(日本支配への反発からきた反乱)、親日団体からのゆさぶりなどで伊藤は「保護国論」を取り下げます。最終的に、伊藤がハルビンで暗殺されたことによって、「保護国論」は完全に姿を消しました。
こうして1910年、韓国皇帝純宗(ロシア派の陰謀により毒入りコーヒーで知的障害を負っていた)が、日本国天皇に自主的に主権を譲り渡す、という形で、韓国併合が実現したのでした。
「主権線」「利益線」の歯止めのない膨張→日本の「暴走」へ
しかし、日韓併合は、山県のいう「主権線」が完全に大きく北に移動したことを意味します。つまり、「主権線」は朝鮮半島の付け根にまで広がり、「利益線」は、それまでの韓国国境から、南満州にまで広がっていくことになります。
そして、それはどんどん膨張していきます。南満州権益が確保されれば、ロシア(ソ連)国境まで。日本の傀儡(かいらい)国家だった満州国ができれば、中国・華北地方まで。さらには、東南アジアにまで、それは歯止めなく、及んでいきます。
そして気がつけば利益線は東~東南アジア全域に拡大。そして、日本が「大東亜の中心として共栄圏を作る」という途方もない構想が生まれ、そしてそれに猛反発するアメリカとの戦争へと、突入してしまったのでした。
日露戦争の勝利で「目標喪失」に陥った日本
なぜ、こういうことになってしまったのでしょう。それは、日露戦争の勝利が、結果的に「日本外交の目標の喪失」を生んでしまったからに他なりません。
つまり、日本は「国土独立の要(かなめ)」と考えていた朝鮮半島を手に入れてしまいます。しかも、ロシアに勝ったことで、名目ともに「列強」の仲間入りです。
ここで、日本が外交目標を、たとえば武力進出から経済進出に移せば、また違った歴史があったかもしれません。しかし、日本はその後も、特に目標がないまま、武力による大陸進出に執着するようになります。
しかも、日本が「列強」入りしたことで、日本の国際的地位は大きく変化します。
それまでの日本は、「列強」に使われる存在でした。「列強」の中国貿易の足がかりとして開国させられ、江戸幕府と薩長連合の抗争は英仏の代理戦争としてあつかわれ、日露戦争においては南下するロシアの防波堤として、日本は利用されてきたのです。
しかし、これからは「列強」入りした日本を使うことのできる存在はいない。自立を果たしたわけです。それは喜ばしいことでした。しかし、「列強」と対等の地位になることによって、日本を「利用する」ために「支援」する国は、いなくなります。
むしろ、日本はアジアにおける「警戒すべきパワー」となり、次第に孤立の色を濃くしていきます。いや、孤立していても独立できていればいいわけです。問題は、エリートたちがこの「孤立」に過剰反応したことにあるのです。
ワシントン会議で日本が第1次大戦中に中国に受諾させた「21ヵ条要求」で得た利益の多くを英米主導のもとで撤回させられたこと。
あるいは、ロンドン軍縮会議で補助艦比率を抑制させられたこと(実際には、これはむしろ日本にとって有利な比率だったのですが)、などなど、日本の支配エリートたちは、「欧米からの孤立」に敏感になってしまうのです。
その孤立感に対し、大衆支持基盤の薄い戦前の政党政治は無力でした。しだいに強硬な軍部に押し切られるようになり、日本外交は破綻、戦争へと突入してしまうのです。
「国家ビジョン」を持った強力政治家の不在
しかしもし、伊藤や山県のような、ビジョンを持ち、しかも権力も兼ね備えた政治家がいれば、違っていたかもしれません。可能性とすれば、伊藤亡きあとの立憲政友会を事実上率いていった原敬だったでしょう。彼は山県派との抗争の末、政権を握り首相に上り詰めます。これだけみても、彼の権力術は並み大抵のものがあることがわかります。山県は日本政界の巨魁だったわけですから。
しかし、「日本を国際協調の中において国際的地位を高め、わきあがる普通選挙要求が過激にならないように漸進的に選挙権制限を緩和していく」……こうした彼の長期的な国家ビジョンと、彼の絶妙な権力の動かし方は、「敵」の山県をして感服させるものがありました。
ですが、原は首相在任中に暗殺。山県は大きく嘆いたといいます。残る最大の実力者山県も翌年死去。軍部の暴走を止めることのできる権力者は、誰もいないまま、日本は激動の昭和を迎え、「破綻」をむかえることになるのです。
日本経済の悪化→恐慌の頻発と政治不安へ
日露戦争は、日本経済にとっては大きな負担でもありました。日露戦争では実に巨額の戦費が必要になったのですが、とうてい明治日本が自力で拠出できる額ではありませんでした。
結局、増税による収入で21%、国債による収入で73%(うち外国債35%)によって、戦費はまかなわれたのです。
これ以降、当然のように脆弱化した日本の経済は不安定になります。日露戦争直後第1次大戦では特需による好景気にみまわれたものの、その後は戦後恐慌→震災恐慌→金融恐慌→昭和恐慌と恐慌が頻発。
結局、「満州や中国から権益を獲得するしかない」ということになり、日本は泥沼の「十五年戦争」へと突入することになるのです。
日露戦争がわれわれに与える「教訓」
「日露戦争の勝利」という成功体験に酔いしれ、国家ビジョンを失い迷走していった大正・昭和の日本。日露戦争のあとに味わった日本の栄光と挫折は、今のわれわれに対し、「いかなる事態にも感情ではなく冷静に対処し、中長期的ビジョンを失うな」と警告しているように思えます。
※「日露戦争とは何だったのか」についての参考書籍・資料はこちらをごらんください。
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